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マーリブラン劇場のまん前、幅2メートル位の道路を挟んで
劇場と同じ名前のマーリブランというホテルがあって、10年程前には よく泊まったものだ。昔は前の劇場で歌う歌手などが逗留したのだろう。 その頃の面影を残して他とは一寸変わった三つ星ホテルだ。 レストランが地上階にあって宿泊者以外も入れる。 結構美味しくて、食べた人に云わせるとイカ墨のリゾットなどは絶品だそうだ。 この間行った時はバカラ マンテカータ(鱈の切り身を茹でてほぐし、パセリ、 ニンニク、牛乳、オリーブ油などと混ぜて捏ね上げた料理)があったので 注文したが、10年前と変わらない味だったので、シェフもそのまま居ついて いるのかもしれない。 マーリブラン劇場はリアルト橋を渡らないで郵便局の前を道なりに まっすぐ行って右側にある教会の角を曲がるとすぐ。観光街から すぐなのに、本当のヴェネツィアが見られる。
ルネッサンスの頃フィレンツェで始まったオペラはヴェネツィアで盛んになり、
ついでナポリに移ったのだそうだが、ヴェネツィアでは最盛期に72だかの オペラ劇場があった。有名なラ フェニーチェは何回か火災に会い、最近の火事 から立ち直ってつい数年前に再開したばかりだが、実は殆ど同じ時期にもう一軒 改装されて開場した。 Malibran(マーリブランと発音する)という劇場で、僕が始めてこの建物を見た時は 見捨てられた廃屋で客席への矢印案内を書いた木材が散乱していた。 この劇場、1677年に建てられたものだが、工期はたったの4ヶ月だったそうだ。 それでも1683年当時、19軒あったオペラ劇場の中で「最も美しく充実している」と 褒め称えられている。最初の建物は観客席が5列、各列に座席が33しか なかったが、1700年代に改装されて各列の席数が40に増え、観覧席全体が U字形になった。1835年に此処で「夢遊病者」を歌った歌手の名前をとって1835年に マーリブランと呼ばれるようになったが、その頃から衰退し始め、1900年代の初めには オペラ、オペレッタの他に映画も上映していたとのこと。1992年にヴェネツィア市が 買い取って大改装を行ない、客席も900席に増やして再開することになった。 改装の際、下を掘ったらマルコ ポーロが住んでいた家の跡がでてきた。マルコ ポーロの住んでいた家は劇場のすぐ横にあるし、その家に添った所に劇場の楽屋口が あるから確かに劇場はマルコ ポーロの家の構内に建てられたのかもしれない。(もっとも マルコ ポーロはクロアチア領、ドブロヴニク近くのコルチュラ島に住んでいたという説もある)。
今朝、関東・中部地方に地震があった。最近はラディオやテレヴィを点けておくと
よく地震の情報をやっている。日本中が絶えず揺れているみたいだ。 かって夜中に地震があった時、ホテルに泊まっていたイタリア人のソプラノ歌手が 吃驚して公演もスッポリだしたまま翌日の飛行機で帰国してしまったことがあるが、 イタリアでも結構地震はある。2,3年前のアブルッツィやサン フランチェスコの廟の 壁画が崩れたアッシジ地方の地震はまだ記憶に新しいだろうが、ポンペイだって ヴェスヴィオの噴火で壊滅する数年前には大きな地震に見まわれている。 シチリアのノトは1693年の大地震で崩壊し、5キロ程離れた場所に新しい町を 造らなければならなかった。メッシーナは1783年と1908年の2度にわたる大地震で 大打撃を受けている。その他地震は方々で起きて居るが、所謂直下型が多いらしく 被害は割合小範囲のようだ。かって北イタリアの村が夜中の地震で一瞬の間に なくなってしまい、犠牲者も沢山出た時はローマの町中に市長の名前で追悼の 大きな壁新聞が張り出されていた。
本棚を整理していたら50年程前イタリアの専売局からもらった灰皿が出てきた。
四角い陶器で、4面にマチェドニア、エーデルヴァイス、ドゥエ パルメ、セラーリオの 模様が描いてある。エーデルヴァイスは赤と黒をバックにエーデルヴァイスの花一輪、 ドウェ パルメ は緑で椰子の木二本、セラーリオはブルーでアラベスク風に星が 散りばめてある。 何れも高級煙草だが今はないようだ。 安月給の僕には滅多に 吸えなかった。愛用していたのはナツィオナーレ スーパー フィルトロ。 最も ポピュラーな煙草だったが、その他にアルファなんて安いのもあった。 安葉巻のトスカーナは小間物屋でも売っていた。
お国柄だけに考古学博物館はイタリア中無数にあるが、
僕はどういうものかパレルモの博物館が気にいっている。 はじめて行った時は改装中で、三階に古代ローマ人の 彫像が沢山放置されていた。参観者なんて一人もいない中で そんな彫像に囲まれていると彼等が話しかけてくるような錯覚に 捕らわれてはるかなるローマの昔に思いを馳せたものだ。 この博物館にはカルタゴの日本で言えば仏壇のようなものも 展示されていて、2200年位前の彩色が残ったりしているが、 面白いのは南のギリシア遺跡セリヌンテの神殿のメトープ (欄間絵のようなもの)。メドゥーサは髪の毛が蛇で、彼女を 見ると石になってしまうギリシアの妖怪と子供の頃から聞かされて いたが、此処に展示されているものは舌を出したりしていて 漫画チックだ。ゼウスの結婚と言う名がついた浮き彫り彫刻は 浮気をしたゼウスが女房のヘーラに見つかって「もうしません」と 謝っているみたい。そんなゼウスを一大痴話喧嘩のあとで ヘラが「しようがない人ね」と言って許しているように僕には思える。 とにかく古代の世界にさまよいこんだ気持ちになる博物館だ。
シチリアでもアメリカでもマフィアのファミリーどうしの勢力争いは凄かったようだ。
日本のヤクザの出入りと同じようなものだが、仁義なんてなんのその。床屋で 髭をそっていたり、レストランで食事をしたりしている間にピストルで撃たれてしまう。 ニューヨークのイタリア人街リトル イタリーのこじんまりしたレストランでこの間 ここでマフィアの親分が殺されたと聞いて、その凄まじさを実感したこともある。 1980年頃からだろうか。イタリアでもマフィア退治に乗り出したが、取締りの 県知事や警官、検事達が片端から殺されてしまう。シチリアのパレルモの空港の 構内、ターミナル ビルを出てすぐの所の道路の真中に大きな穴があいていた事がある。 自動車が通れないので迂回したが、聞いたら数日前ローマからマフィアの取り締まりに 来た検察官の乗った車が爆破されたのだとのこと。勿論検察官は即死だった。 しかし、イタリア政府もそんなこと位では負けていない。片端からマフィアを 捕らえて裁判にかけたが、その法廷のテレヴィを見て驚いた。法廷の中に鉄製の檻が ずらりと並んでいて、被告は一人づつ隔離されて檻の中。被告達を暗殺から守る為 なんだそうだが、檻をガタガタゆすりながら裁判官に向かってどなっている様は まるで怒ったゴリラみたいだった。
禁酒法で大もうけしたアメリカのマフィアも自由に酒が飲めるようになり、
政府の弾圧も強くなると、賭博等に精を出す一方イタリアのマフィアと 手を組んだ麻薬の密売にも力を入れて販売先を米国以外のメキシコや その他の国に延ばしていった。 その頃、アメリカで有名な親分はラッキィ ルチアーノで彼の時代から マフィアに代わってコーザ ノストラ(俺達のことだ)という言葉が出来たらしい。 ラッキィ ルチアーノは結局掴まって終身刑になっていたが、時は第二次世界 大戦の真っ最中。アメリカ政府が取引を申し出たらしい。お陰でアメリカ軍は シチリア島南部、ついでナポリ南方のバッティバリアの海岸近くに上陸し、 戦況を有利にすすめることが出来たが、ルチアーノはシチリアのマフィアと 連絡を取って米軍の上陸の手助けをさせたらしい。シチリアのマフィアは ファシストにコッピドクやられていたから愛国心なんてなんのその。まして 仲間のラッキー ルチアーノからの頼みだから喜んで協力したのだろう。 ナポリ南方の海岸に上陸したのはマフィアとも関連のあるナポリのギャング団 カモッラに応援を頼んだのだろう。お陰でルチアーノは罪一等を減じられ、 アメリカ国外追放となったが、連合軍もマフィアの助けを借りなくては 上陸できなかったのだろうか。
そのうちアメリカ マフィアにもファミリーができる。
ファミリーは家族といった意味だが、日本のヤクザで 言えばさしずめ何々一家とか何々組にあたるのだろう。 初代の親分で有名なのはアル カポネということだが カポネは分類上マフィアではなく、ギャングだと聞いた ことがある。いずれにしろ僕にはあまり興味のあること ではないのでぅわしいことは知らない。 アメリカのギャングだかマフィアは恐ろしく間抜けな 禁酒法のおかげで闇酒が売れ、大儲けをしたが、 本家のイタリアではファシスト政権の弾を圧をくらって 大打撃を受けたようだ。
(昨日は亡妻の3周忌の法要を営んだのでブログは書けなかった)
アメリカでのマフィアは1900年代の初め頃から本格的に始まったらしい。 1880年頃からイタリア人のアメリカ移民が盛んになったようだが、その中の シチリア人達の間に将来マフィアに育っていく連中が雑じっていたのだろう。 始めは麻薬に興味を示さなかったシチリアのマフィァも資金源を求めて手を 染めるようになる。丁度フランスのマルセイユにあった麻薬ノ精製所が当局の 手入れにあって壊滅したので、その後をついだシチリア マフィアはシチリア 東部のカターニアにまで麻薬の精製所を造り、その製品をアメリカに密輸し、 アメリカ マフィアが売りさばいたということだ。
マフィアの基は土地の差配だそうだ。もともとシチリアの東半分
殊に州都のパレルモの周辺にはマフィアの巣が多いようだが このあたりの地主は大土地所有者が殆どだったのだろう。 当時は大規模な企業農業なんてない時代だったが大地主達は 土地を直接小作人に貸付けてその一人ひとりと面倒な契約だとか 年貢の取立てをせず、差配を立てて一括して貸し与えていたようだ。 差配は土地を借りるにあたって地代を値切り、小作人達からは 高い年貢を取って鞘を稼ぎ,更に年貢を都会で高く売って儲けていたらしい。 この制度、イタリアが統一されて新しい土地制度が確立されたあとも続き、 紙幣を貸し渋ったり、高い地代を請求する地主達にはを私兵を雇って 脅していたらしい。 国家統一とともに都会部には色々な産業が発達したが、差配達は 産物の輸送とか都市の清掃権といったものも手に入れて行く。 この差配のやり方がマフィアの基だったとも言われている。
昨日はイタリアの海難事故(海難ではない。船長にあるまじき人為的な過ちだ。
しかも自分が先に逃げだすなんて。こんなのを大型船の船長にする会社も会社だ) のことで中断したが、マフィアはそんなに古いものではないらしい。マフィアという字が 最初に見られるのは教会に残っている1665年頃の文書だそうだ。語源は不明だが、 石切り場というアラビア語だとか、1282年に起きたフランス人逆殺事件の時の スローガンの頭文字を繫ぎ合わせたものだとか色々言われている。 =これから長野に行くので続きは明日書く=
イタリアの客船コンコルディアが大事故を起こした。
日本に居るので詳しい情報は分らないが、海図をろくに 見ないで航路を設定していたらしいこと。それも船長が下級船員の 1人に生まれ故郷を見せる為だったそうだから、イタリア的だが、 それにしても4千人位の命を有料で預かっている責任感は なかったのだろうか。船が事故を起こした時船長は最期まで 船に残るものだと聞いたが、彼はサッサと下船してしまって、 お母さんに電話したそうだ。大変な事故を起こした52才の男がマンマと 電話したなんていかにもイタリアの男らしい話しだが我々からみると なにか狂っているように思われる。 こんな男を大きな客船の船長にし、船員達にも緊急時の処理方法を 教えていなかった船会社コスタ社も重大な責任がある。 ジェノヴァ、ヴェネツィア、ピサ、アマルフィとかっては地中海の覇を 争った海洋国家が並ぶイタリア。アンドレア ドリア、ミケランジェロと いった豪華客船で大西洋航路の雄となったこともあるイタリアの海運は どこへ行ってしまったのだろうか。でもそのミケランジェロもニューヨーク近くで 沈んでしまった。 友達が住んでいたのでニューヨークには公用、私用でよく行った。 イタリア街があり、食料品店もイタリアと変わらないような店が何軒も あるけれど、イタリア料理はまづい。どこかまともに食べられる所は ないものかと探し歩いていたら、ブルックリンの真中あたりに美味しい 店があるとの情報があった。早速行ってみたらエジプト人がやっている イタリアン レストラン。マフィアの親分の行きつけの店で、親分が入って きたら他の客は全員食べかけでも出て行かなければならないとのこと。 何時追いださられかとヒヤヒヤしながら食べたが、結構美味しい店だった。 イタリア人街のリトル イタリーも怖いところで、ある小さなレストランで 数日前マフィアがこの店で撃ち殺されたと聞いたことがある。
昨日は名古屋に行っていたのでブログが書けなかった。
最近マフィアのことを聞きたがる人によく会うが、僕だって知らない。 ローマに居た時、会社で働いていたイタリア人が言っていたが、 シチリアで田舎の一軒家に住んで居る彼のお祖父さんのところに ある晩マフィアがやってきた。おもてでゴソゴソ音がするので 声を掛けたが返事がない。鉄砲を持ち出して暗闇に向けて一発 ぷっぱなしたら逃げて行ったそうだが、ことによったらただの 泥棒だったのかもしれない。 パレルモの高級レストラン、チャールストンは夏になると郊外の モンデッロに移り、海の上にテラスを張って客はその上で食事をする。 周りの景色も良いが、脚の下を海水浴客が泳いでいったりして面白い。 そんなレストランで家内と食事をしていると黒いハット、黒い服と 黒ずくめの男が入ってきた。60才位の背の低い男だが連れている 若い女性の綺麗なこと。すこぶるつきの美人だった。定席なのだろうか 壁を背にした席に坐ると、レストランの支配人がスットンデ行って 男の手に何回もキスしていた。
寒い冬によく行ったローマのレストラン。川向うと言った感じのトラステヴェレは
昔は庶民的なところでレストランンも沢山あるが、裏通りにあった店をよく思い出す。 畳一帖位の裏庭があって、夏、そこで食べていると傍の木にイモリだかヤモリだかが 居たりしてそれなりの風情があったが、冬は面白かった。空いていると親爺が厨房から 出てきて手品を見せてくれる。トランプを一枚取って伏せておくと、もう一度切りなおした 残りのトランプを天井に投げる。伏せておいたトランプが図柄が見えるようにして天井に 張り付き、残りはバラバラと客席に落ちてくる。糊もついていないのに、何故図柄が 見えるようにはりつくのか分らなかったが、そんなわけで、この店の天井はトランプ だらけだった。親爺はその他色々な手品を教えてくれたが、全部忘れてしまった。 この店、今はない。
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