フランス人
最近の震災で大被害を被ったアマトリィチェの周辺の
人達をバカにしたというより侮辱した絵がフランスの
新聞だかに出た。アラブの宗教をバカにしてひどい目に
あってからそれほど日もたっていないのに、今度は
天災にあって苦しんでいう人達を茶化すとは。
フランス人はいったいどんな気質を持っているんだろう。
 自分達さえ楽しければ他人の不幸は笑い話にしちゃおうと
いう考えなのだろうか。ばにが自由、平等、博愛なんだ。

 もう50年程前のある晩北イタリアの村が直下型地震に見舞われ、
瞬時にして埋没してしまったことがある。その翌日アドリア海側の
町ペスカラに行って夕方ローマに帰ってきたら、町中至る所に
畳2丈分位ある大きな壁新聞が貼られてあって、ローマ市長の
名前で「昨夜北イタリアの(村の名前は失念)で大惨事が発生し、
多くの犠牲者も出た。ローマ市民一同死者には心からの哀悼の
意を表し、犠牲者には出来得る限りの援助をしよう。」と
書いてあった。この壁新聞、ローマだけでなく、イタリアの各地で
続けられている筈だ。
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# by pincopallino2 | 2016-09-12 17:01 | Comments(0)
蟋蟀
 蝉に代わって蟋蟀が鳴き始めている。松虫や鈴虫でなくても良い。
普通の蟋蟀が短い一生を謳歌し、次の子孫を作る為に精一杯声を
張り上げているのを聞いていると、もののあわれを感じさえする。
 随分前のことだが、秋になると台所に「鉦叩き」が一匹でてきて
我々が見ているのにもかまわず一生懸命鳴いていた。冬も近くなった頃
姿を見せなくなったので多分死んでしまったんだろうと思っていたら
翌年にも同じ場所に現れて楽しませてくれた。多分親子が代々同じ所に
住み着いたのだと思うが二、三、年でいなくなってしまった。
 イタリアではこうろぎのことを「グリッロ」Grilloと言って
有名な童話「ピノッキオ」の中にも出てくる。秋の夕暮れ、遠くから
高速道路で帰ってくると道中が蟋蟀の声でいっぱいだったのが懐かしい。
声も鳴き方も日本と同じだった。
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# by pincopallino2 | 2016-09-08 08:54 | Comments(0)
蝉の声
 うるさいという人も結構いるらしいが、僕は日本の蝉の声が大好きだ。
子供の頃の東京ではまづ油蝉、それからミンミン蝉、ツクツク法師と
鳴き次いで、最後は哀愁の漂う日暮らし蝉で終わる。
70年程前湘南の方に越してきてからはクマゼミも加わった。
木の下に穴が開いていると、いったいどの種類の蝉が長い間土の中で
ジッと我慢していたんだろうと気になる。
 僕の知る限り蝉の鳴き声が一番綺麗で素晴らしいのは日本で、イタリアに
赴任した年の夏ローマで初めて蝉の声を聴いた時は電信柱の上の変電器が
壊れて雑音を出しているのだと思った。その後沢山の国を回ったが
どこでも大同小異。ニューヨークに住む友人にお中元として蝉の声を録音
して贈ってやったこともある。我々は周りを取り巻く日本の自然にもっと
慈しみの目を向けてやってもいいのではないだろうか。
 ところがその蝉の声、二学期が始まる日あたりからピッタリと病やんで
しまった。理由を教示してくださる方がいたら多謝。
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# by pincopallino2 | 2016-09-07 16:59 | Comments(0)
不義
 今の人間社会では不義はご法度ということになっていて、
禁じている宗教も多いが、例えばカトリックの大本山がある
イタリアでは先日書いた一国の宰相でありながら他の女性と
既婚していた男ムッソリーニとクララ ペタッチの仲が公然の
秘密となっていたのに教会側はなんの処置もこうじなかったの
だろうか。
 宗教も愛だの慈悲だのとお題目を唱えているだけでなく、
もっと現実の人間性にあった活動をしてほしい
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# by pincopallino2 | 2016-09-04 09:31 | Comments(0)
スパゲッティ アマトリチャーナ
 今までイタリア料理のスパゲッティ アマトリチァーナの名前は今度の地震で
大被害をうけた村アマトリィチェに由来するものだとばっかり思っていたが、
最近、アマトリチャーナの語源は同じアペニン山中の村ながらアマトリィチェより
南のモリーぜ州にあるマトリィチェからきていると唱える人が出てきたようだ。
アマトリィチァーナ(アマトリィチェ風)は普通All'Amatricianaと書くが
マトリイチェの場合はAlla Matricianaとなって間違えではないが何か釈然としない。
 村自体、アマトリィチェの方が大きく、山に入って働く人の数も多そう。
なによりも村にあるレストランの数は圧倒的に多いし、イタリア人に聞いても
みんなアマトリィチェだというから、僕も今まで通りアマトリィアチェが本場だと
信じることにする。(アマトリィチェのレストラン、今度の地震でほとんど崩壊して
しまったのではないかと心配している。  
 マトリィチェ本家説はアマトリィチェに対抗する為かどうかはしらないが、
マトリィチェの人間が日本人に吹き込んだのかもしれない。  
 なおマトリィチェから1乃至2キロくらい離れた所には紀元前200年頃に建てられた
神殿がある。
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# by pincopallino2 | 2016-09-02 11:52 | Comments(0)
アマトリィチェ 3
その後イタリアから送られてくる地震の被害写真を見ていると、
自分も歩いていた町角が無残に壊れ、今は簡易避難所に使われている
公園の現状などが映っていて、心が痛む。
 もっともアペニン山脈中のこの地帯、数年前には100キロも離れていない
ラクィラ周辺で、さらにその数年前にはアッシジ付近でかなりの災害を
出した大地震が発生しているので、地震の多発地帯なのかもしれない。 
 一緒に日向ぼっこをしたりした老人どもは無事だったろうか。
勿論こっちも90になんなんとしているから、地震なんて怖い思いをせずに
あの世に行ってしまった者も多いだろう。
 スコイアッロのたしかマリアというお婆さんが元気だったら彼女の作る
アマトリチァーナ ソースのパスタを是非もう一度食べてみたい。
アマトリィチェの村から一寸離れているが、真ん中にボート遊びや魚釣りが
楽しめる池があって、その周りにはバンガローが並んでいる。
事務所や食堂のある本館は別に立っている。
  マリアさんは頼めばアマトリチァーナを2種類作ってくれた。
最初は現代風のトマト味。これも絶品だが次のクリーム味のものがすごい。
トマトがヨーロッパに入って来る前だからクリームやチーズ等が入って
しつこいからあとから世に出たトマト味の方を先に出してくれるという
気のつかいようだ。
  彼女、ローマで生まれて南イタリア、プーリアのホテルにお嫁にいったが
亭主が死んだので、ホテルをやめ息子と二人でアマトリィチェに移り住んだ
のだそうだ。生きているにしても僕より上だろうから彼女味は無理だろう、
  ちなみにクリーム味のアマトリチァーナはアブルッツィ風としてだしている
店もある、
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# by pincopallino2 | 2016-08-30 11:36 | Comments(0)
アマトリィチェ2
  アマトリィチェの地震災害情報。次々と入ってくるが、
発生して間もないとはいえ、暗い情報ばかりで気が重い。
  救出活動もままならないということだが、アマトリィチェへの
道はバスも通れる位とはいえ曲がりくねった山道なので
外部との連絡もたいへんだろうと思う。
  今はただ一刻も早く復旧してほしいと祈るのみ。
観光的にもローマ時代の人工の滝やアッシジの聖フランチェスコが
子供達にキリストの事績を教える為に作り出し、自ら手製もした 
クリスマス用のプレセピオ(キリスト降誕を再現した人形)がある
グレッチ、聖ヴァレンティーノがうまれ、生涯を司祭として若者達の
為につくし、死んでも埋められている町にも近く、お料理もリェーティの
周辺ではアマトリチァーナと同じような始まりのアリオ、オリオ、
ペペロンチーノが食べられるなど魅力溢れる地方なので、
ぜひ訪れて欲しいところだ。 
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# by pincopallino2 | 2016-08-26 17:44 | Comments(0)
アマトリィチェ
  中部イタリア・イタリア半島の背骨といわれるアペニン山脈の中の村
アマトリィチェ(Amatrice)に大きな地震が起こり、多くの人が犠牲になった
ようだ。なくなった方々の冥福を祈るとともに被害を受けられた村人に
心 からのお見舞いを申し上げる。
  アマトリィチェはイタリア料理スパゲッティ アマトリチァーナ発祥の地
だから、日本のコックさん達も味見をしに沢山行くが、期待した程美味しく
ないので拍子ぬけしたような顔で戻ってくる。山の中の町なので猟師や
炭焼き等が多く、彼らは乾麺やトマト、ベーコン、お鍋を一つ持ってあとは
塩、黒胡椒とワイン。水や薪はいくらでもあるから簡単な弁当になり、家から
持って行く材料もかさばらない。従って味は二の次だったのかもしれない。
 アマトリィチェには2回程行ったことがある。最初に行ったのは二月の
始めで3,000人位の人口にしては多すぎるように思われるレストランには
つららが地面にまで垂れ下がっていて、店に入るにはそんなつららを折らなければ
ならなかった。
 アマトリィチェの村から1キロばかり離れた所にある「リス」(Lo Scoiattolo) 
レストランではまだヨーロッパにトマトが入る前のアマトリチァーナとトマトが
入ってからのアマトリチァーナの2種類を食べ比べさせてくれたが両方とも
すこぶる美味だった。
 もっとも前菜に鹿の睾丸の干物が出たのにはまいったが。
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# by pincopallino2 | 2016-08-25 14:54 | Comments(0)
馬術競技の馬
 テレヴィでリオ デ ジャネイロの馬術競技を見ていたら、60年程前の
東京オリンピックの時のことを思い出した。
 当時、航空会社の羽田事務所に勤務していてが、たまたま泊まり勤務の晩、
夜の10時頃になって、運輸省からアルゼンティン からのプロペラ機が同国の
馬術競技グループ用の馬を積んで飛んできた。あと2,3時間で着くから
乗務員達の世話をするようにとの依頼があったが、そんな飛行機、到着予定時刻に
なってもなかなか現れない。そのうち機内から連絡があって、馬の一頭を射殺
したとのこと。飛行機は結局真夜中をだいぶ過ぎてから到着。内部からドアを
開けてもらって入ると中は馬の体臭と馬糞のにおいで充満。乗っている人間は
アメリカならカウボーイといったガウチョばかりで英語は全く通じない、、
操縦士達は事前の手続きなんて何もしないで飛んできてしまったものだから
民間航空局や入国審査、税関の手続きに連れて行かれて、誰とも言葉が通じない。
困っていると、馬の間から12,3歳位の日本人らしい男の子が顔を出して
「オジさん、僕日本語がわかるよ」と叫んでくれた。
 どんなコースで来たのか聞かなかったが、ジェット旅客機でも30時間は
かかるアルゼンティンの南部からギッシリと詰め込まれたま途中休息も与えられずに
飛んでくれば、馬も気が狂ってしまうだろう。事実、発狂した馬2頭は機内で射殺。
残りの馬も発狂寸前で、飛行機から降りようとしないのを、なだめすかしながら
おろし、当時は飛行場にもあった草原で落ち着かせたときには空がしらじらと
明けだしていた。
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# by pincopallino2 | 2016-08-22 17:19 | Comments(0)
ムッソリーニの恋人クラーラ ペタッチ 10.
ムッソリーニはクラーラと転々と場所を変えながら人目を忍んで会って
居たのではなく、瀟洒で現代的な家を建てて住んでいた。場所はローマ市の
西北にあたるモンテ マリオという丘への登り道、カミルッチァ通り、
戦後暫くの間はレストランになっていたから僕もよく通った。建物自体は
ムッソリ-ニが使っていた頃と殆ど変わっていなかった。通りから門を潜ると
白い玉砂利を敷きつめたゆるい登り道が途中で一回ヘヤピン カーヴをしながら
玄関迄続く。玄関ではまづアペリティヴ。ダイニング ルームは2階だったが、
階段ではなく、大理石のスロープを上る。欄干に当たる部分は天井までガラスで
覆われ、中で小鳥達が戯れていた。2階のレストラン部分は広く、食卓どうしの
間隔もゆったりしていたが、おもてはプール付きの広いテラスになっていて
バーベキュウも楽しめ、夏の夜にはムッソリーニとクララの二人だけで戯れたで
あろうプ-ルの上で演奏する楽団にあわせて踊れるようにもなっていた。
大きな一枚ガラスのドアを通しての外の見晴らしは素晴らしく、夜には白い
大理石の柱の上で金色のマリアの像が輝いていた。このレストラン、開かずの
間が一つあった。寝室で、天井から床迄全部鏡張りとか。本当ならムッソ
リーニも随分悪趣味な男であったのに相違ない。
 レストランと同じ敷地内にクラーラの一族が住んでいたが、レストランが
廃業し、建物も壊されてしまった今ではその後の消息を知るすべもない。
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# by pincopallino2 | 2016-08-15 10:37 | Comments(0)
ムッソリーニの愛人  クラーラ ペタッチ 9.
銃殺後、ムッソリーニとクラーラの遺体はミラノに運ばれて
サン ロレートという広場で逆さ吊りにされた。
クラーラの遺体は足首のところで結わえられていて、スカートが
広がらないようになっていた。
 この光景をたった一人の日本人が見ている。ドイツ駐在の
商社マンで、仲間を代表してドイツでは全然手に入らくなった食料品の
買い出しにミラノにやってきて偶然目にしたのだが、異様なことに周囲には
支那人が一杯居たそうだ。
 ムッソリーニとクラーラ ペタッチの馴初めについては
ある会でクラーラをみそめたムッソリーニがファシスト党の幹部であった
夫をたまたま日本に派遣することになっていたイタリア使節団の一員に加え、
当時は船で片道一か月近くかかったその留守の間に口説き落としたという説や
未婚時代から大のムッソリーニ ファンだった彼女がたまたま透りかかって
彼の車の前に飛び出して知り合ったら数日後ムッソリーニの事務所に訪ねて
来るようにとの手紙を受け取ったという話などがいろいろあってどれが
本当かわからない。
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# by pincopallino2 | 2016-08-13 11:38 | Comments(0)
ムッソリーニの恋人クラーラ ペタッチ 8.
やがてクラーラはムッソリーニと共に本国目指して撤退する
ドイツ軍に混じって北に向かう。二人ともドイツ軍兵士の服装を
して車輌部隊の車の中に隠れていたそうだが、コモ湖西岸の
ドンゴという部落の近くでパルチザンに発見されてしまった。
ついこの間までと違ってドイツ軍の車輌部隊もイタリア民兵の
パルチザンの検閲を受ける程弱体化してしまっていたのだろうか。
 このあたりからの話は諸説紛々としてどれが正確なのか分からないが、
発見された二人は一晩近くの村の民家の二階に泊められたらしい。
その時世話してくれた主婦の優しく心のこもったもてなしに一時は
抱いた「助かるかもしれない」という希望も翌朝どこかの屋敷の
門前であっけなく射殺されてしまった。捕まった時クラーラは
「あなたは逃げても良いよ」と言われながら敢然として「私は
ムッソリーニと離れない」といったそうだ。
 いずれにしろ、二人の銃殺はパルティザン上層部の許可も受けずに
行われたらしい。
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# by pincopallino2 | 2016-08-11 11:02 | Comments(0)
ムッソリーニの恋人クラーラ ペタッチ 7.
 筆者兄弟とペンギーノ、ブルーノ達との付き合いは2週間位で終わった。
パルティザンとファシスト党員の争いが激しくなり、日本人も車で走行中の
海軍武官や商社マン達が殺されたりするような危険な状況になったので、
新聞記者である自分はともかく、子供達はたまたまメラーノの方面へ移動する
ドイツ軍の輸送部隊の後ろにくっ付いて危険な場所を通り抜けさせようと
考えた小野特派員は子供達に早速の出発を命じる。慌ただしい出発だったが、
玄関の車寄せで見送ってくれているクラーラやペングィーノ、ブルーノ達の
姿が見えなくなるまで、車のリア ウィンドウに額をくっつけて手を振り続けて
いたそうだ。
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# by pincopallino2 | 2016-08-07 09:34 | Comments(0)
ムッソリーニの愛人クラーラ ペタッチ 6、
 そんなある日。静かな湖畔の別荘街に突然大声が響きわたった。
何事かと表に出てみると、隣の別荘の湖に面したテラスから小太りな
初老の女がこっちを向いて手を振り回しながら多分「泥棒猫メ」とか
「亭主を返せ」と言ったようなことを叫んでいる。
 真っ青になって怯えているクラーラに頼まれて小野特派員が出て
行くと、姿を消したようだが、一説によればその後何回も現れて
罵詈雑言を並べ立てた彼女はムッソリーニの正妻ラケーレであったと
思われる。
 彼女自身の手記によれば「夫は、本当に家庭的な好々爺であった」と
書いているが、実際には嫉妬に悩まされていたのだろう。
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# by pincopallino2 | 2016-08-05 18:31 | Comments(0)
ムッソリーニの恋人クラーラ ペタッチ 5
 ムッソリーニが毎日新聞の支局用として別荘を手配してくれたのは
最初の会談の時か、その後何回か会っているうちに決まったのか判然と
しないが、ムッソリーニは代償としてクラーラを同居させてほしいと
言い出した。新聞社といっても地方局だから特派員一人位だったろうし、
建物は4階建てだったから余裕は充分過ぎる程あったと思われる。
 ドイツ軍はクラーラ警護の為と称して親衛隊長以下4名の親衛隊員を
配置したので、日本側も支局員ということにして2人の日本人を
置いたが、これが一人はイタリアに勉強しに来ていた歌手、一人は
フラメンコ ギターを習っていたというから、およそ警備員には
似つかない優男であったようだ。
 1944年の夏、筆者は兄とともにこの別荘に行く。クラーラの兄の
マルチェッロが夫婦で2人の子供を連れて夏休みを過ごしに来るので、
遊び相手をする為だった。子供は5歳のペングィーノと4歳のブルーノという
男の子達だったが、兄弟、まったく似てなく、しかもマルチェッロ夫妻、
クラーラとも兄のペングィーノばかり可愛がって、弟のブルーノを粗略にする。
筆者は子供心にも義憤を感じていたようだが、周囲の人の話からも
長男はムッソリーニとクラーラとの間にできた子だろうと推測する。
 ちなみに ペングイーノ(ペンギン)という名前も正式の名前としては
おかしい。ムッソリーニも若い頃同じあだ名で呼ばれていたそうだ。



そんなある日、突然庭中に
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# by pincopallino2 | 2016-08-04 11:07 | Comments(0)