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アマトリィチェ 3
その後イタリアから送られてくる地震の被害写真を見ていると、
自分も歩いていた町角が無残に壊れ、今は簡易避難所に使われている
公園の現状などが映っていて、心が痛む。
 もっともアペニン山脈中のこの地帯、数年前には100キロも離れていない
ラクィラ周辺で、さらにその数年前にはアッシジ付近でかなりの災害を
出した大地震が発生しているので、地震の多発地帯なのかもしれない。 
 一緒に日向ぼっこをしたりした老人どもは無事だったろうか。
勿論こっちも90になんなんとしているから、地震なんて怖い思いをせずに
あの世に行ってしまった者も多いだろう。
 スコイアッロのたしかマリアというお婆さんが元気だったら彼女の作る
アマトリチァーナ ソースのパスタを是非もう一度食べてみたい。
アマトリィチェの村から一寸離れているが、真ん中にボート遊びや魚釣りが
楽しめる池があって、その周りにはバンガローが並んでいる。
事務所や食堂のある本館は別に立っている。
  マリアさんは頼めばアマトリチァーナを2種類作ってくれた。
最初は現代風のトマト味。これも絶品だが次のクリーム味のものがすごい。
トマトがヨーロッパに入って来る前だからクリームやチーズ等が入って
しつこいからあとから世に出たトマト味の方を先に出してくれるという
気のつかいようだ。
  彼女、ローマで生まれて南イタリア、プーリアのホテルにお嫁にいったが
亭主が死んだので、ホテルをやめ息子と二人でアマトリィチェに移り住んだ
のだそうだ。生きているにしても僕より上だろうから彼女味は無理だろう、
  ちなみにクリーム味のアマトリチァーナはアブルッツィ風としてだしている
店もある、
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# by pincopallino2 | 2016-08-30 11:36 | Comments(0)
アマトリィチェ2
  アマトリィチェの地震災害情報。次々と入ってくるが、
発生して間もないとはいえ、暗い情報ばかりで気が重い。
  救出活動もままならないということだが、アマトリィチェへの
道はバスも通れる位とはいえ曲がりくねった山道なので
外部との連絡もたいへんだろうと思う。
  今はただ一刻も早く復旧してほしいと祈るのみ。
観光的にもローマ時代の人工の滝やアッシジの聖フランチェスコが
子供達にキリストの事績を教える為に作り出し、自ら手製もした 
クリスマス用のプレセピオ(キリスト降誕を再現した人形)がある
グレッチ、聖ヴァレンティーノがうまれ、生涯を司祭として若者達の
為につくし、死んでも埋められている町にも近く、お料理もリェーティの
周辺ではアマトリチァーナと同じような始まりのアリオ、オリオ、
ペペロンチーノが食べられるなど魅力溢れる地方なので、
ぜひ訪れて欲しいところだ。 
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# by pincopallino2 | 2016-08-26 17:44 | Comments(0)
アマトリィチェ
  中部イタリア・イタリア半島の背骨といわれるアペニン山脈の中の村
アマトリィチェ(Amatrice)に大きな地震が起こり、多くの人が犠牲になった
ようだ。なくなった方々の冥福を祈るとともに被害を受けられた村人に
心 からのお見舞いを申し上げる。
  アマトリィチェはイタリア料理スパゲッティ アマトリチァーナ発祥の地
だから、日本のコックさん達も味見をしに沢山行くが、期待した程美味しく
ないので拍子ぬけしたような顔で戻ってくる。山の中の町なので猟師や
炭焼き等が多く、彼らは乾麺やトマト、ベーコン、お鍋を一つ持ってあとは
塩、黒胡椒とワイン。水や薪はいくらでもあるから簡単な弁当になり、家から
持って行く材料もかさばらない。従って味は二の次だったのかもしれない。
 アマトリィチェには2回程行ったことがある。最初に行ったのは二月の
始めで3,000人位の人口にしては多すぎるように思われるレストランには
つららが地面にまで垂れ下がっていて、店に入るにはそんなつららを折らなければ
ならなかった。
 アマトリィチェの村から1キロばかり離れた所にある「リス」(Lo Scoiattolo) 
レストランではまだヨーロッパにトマトが入る前のアマトリチァーナとトマトが
入ってからのアマトリチァーナの2種類を食べ比べさせてくれたが両方とも
すこぶる美味だった。
 もっとも前菜に鹿の睾丸の干物が出たのにはまいったが。
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# by pincopallino2 | 2016-08-25 14:54 | Comments(0)
馬術競技の馬
 テレヴィでリオ デ ジャネイロの馬術競技を見ていたら、60年程前の
東京オリンピックの時のことを思い出した。
 当時、航空会社の羽田事務所に勤務していてが、たまたま泊まり勤務の晩、
夜の10時頃になって、運輸省からアルゼンティン からのプロペラ機が同国の
馬術競技グループ用の馬を積んで飛んできた。あと2,3時間で着くから
乗務員達の世話をするようにとの依頼があったが、そんな飛行機、到着予定時刻に
なってもなかなか現れない。そのうち機内から連絡があって、馬の一頭を射殺
したとのこと。飛行機は結局真夜中をだいぶ過ぎてから到着。内部からドアを
開けてもらって入ると中は馬の体臭と馬糞のにおいで充満。乗っている人間は
アメリカならカウボーイといったガウチョばかりで英語は全く通じない、、
操縦士達は事前の手続きなんて何もしないで飛んできてしまったものだから
民間航空局や入国審査、税関の手続きに連れて行かれて、誰とも言葉が通じない。
困っていると、馬の間から12,3歳位の日本人らしい男の子が顔を出して
「オジさん、僕日本語がわかるよ」と叫んでくれた。
 どんなコースで来たのか聞かなかったが、ジェット旅客機でも30時間は
かかるアルゼンティンの南部からギッシリと詰め込まれたま途中休息も与えられずに
飛んでくれば、馬も気が狂ってしまうだろう。事実、発狂した馬2頭は機内で射殺。
残りの馬も発狂寸前で、飛行機から降りようとしないのを、なだめすかしながら
おろし、当時は飛行場にもあった草原で落ち着かせたときには空がしらじらと
明けだしていた。
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# by pincopallino2 | 2016-08-22 17:19 | Comments(0)
ムッソリーニの恋人クラーラ ペタッチ 10.
ムッソリーニはクラーラと転々と場所を変えながら人目を忍んで会って
居たのではなく、瀟洒で現代的な家を建てて住んでいた。場所はローマ市の
西北にあたるモンテ マリオという丘への登り道、カミルッチァ通り、
戦後暫くの間はレストランになっていたから僕もよく通った。建物自体は
ムッソリ-ニが使っていた頃と殆ど変わっていなかった。通りから門を潜ると
白い玉砂利を敷きつめたゆるい登り道が途中で一回ヘヤピン カーヴをしながら
玄関迄続く。玄関ではまづアペリティヴ。ダイニング ルームは2階だったが、
階段ではなく、大理石のスロープを上る。欄干に当たる部分は天井までガラスで
覆われ、中で小鳥達が戯れていた。2階のレストラン部分は広く、食卓どうしの
間隔もゆったりしていたが、おもてはプール付きの広いテラスになっていて
バーベキュウも楽しめ、夏の夜にはムッソリーニとクララの二人だけで戯れたで
あろうプ-ルの上で演奏する楽団にあわせて踊れるようにもなっていた。
大きな一枚ガラスのドアを通しての外の見晴らしは素晴らしく、夜には白い
大理石の柱の上で金色のマリアの像が輝いていた。このレストラン、開かずの
間が一つあった。寝室で、天井から床迄全部鏡張りとか。本当ならムッソ
リーニも随分悪趣味な男であったのに相違ない。
 レストランと同じ敷地内にクラーラの一族が住んでいたが、レストランが
廃業し、建物も壊されてしまった今ではその後の消息を知るすべもない。
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# by pincopallino2 | 2016-08-15 10:37 | Comments(0)
ムッソリーニの愛人  クラーラ ペタッチ 9.
銃殺後、ムッソリーニとクラーラの遺体はミラノに運ばれて
サン ロレートという広場で逆さ吊りにされた。
クラーラの遺体は足首のところで結わえられていて、スカートが
広がらないようになっていた。
 この光景をたった一人の日本人が見ている。ドイツ駐在の
商社マンで、仲間を代表してドイツでは全然手に入らくなった食料品の
買い出しにミラノにやってきて偶然目にしたのだが、異様なことに周囲には
支那人が一杯居たそうだ。
 ムッソリーニとクラーラ ペタッチの馴初めについては
ある会でクラーラをみそめたムッソリーニがファシスト党の幹部であった
夫をたまたま日本に派遣することになっていたイタリア使節団の一員に加え、
当時は船で片道一か月近くかかったその留守の間に口説き落としたという説や
未婚時代から大のムッソリーニ ファンだった彼女がたまたま透りかかって
彼の車の前に飛び出して知り合ったら数日後ムッソリーニの事務所に訪ねて
来るようにとの手紙を受け取ったという話などがいろいろあってどれが
本当かわからない。
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# by pincopallino2 | 2016-08-13 11:38 | Comments(0)
ムッソリーニの恋人クラーラ ペタッチ 8.
やがてクラーラはムッソリーニと共に本国目指して撤退する
ドイツ軍に混じって北に向かう。二人ともドイツ軍兵士の服装を
して車輌部隊の車の中に隠れていたそうだが、コモ湖西岸の
ドンゴという部落の近くでパルチザンに発見されてしまった。
ついこの間までと違ってドイツ軍の車輌部隊もイタリア民兵の
パルチザンの検閲を受ける程弱体化してしまっていたのだろうか。
 このあたりからの話は諸説紛々としてどれが正確なのか分からないが、
発見された二人は一晩近くの村の民家の二階に泊められたらしい。
その時世話してくれた主婦の優しく心のこもったもてなしに一時は
抱いた「助かるかもしれない」という希望も翌朝どこかの屋敷の
門前であっけなく射殺されてしまった。捕まった時クラーラは
「あなたは逃げても良いよ」と言われながら敢然として「私は
ムッソリーニと離れない」といったそうだ。
 いずれにしろ、二人の銃殺はパルティザン上層部の許可も受けずに
行われたらしい。
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# by pincopallino2 | 2016-08-11 11:02 | Comments(0)
ムッソリーニの恋人クラーラ ペタッチ 7.
 筆者兄弟とペンギーノ、ブルーノ達との付き合いは2週間位で終わった。
パルティザンとファシスト党員の争いが激しくなり、日本人も車で走行中の
海軍武官や商社マン達が殺されたりするような危険な状況になったので、
新聞記者である自分はともかく、子供達はたまたまメラーノの方面へ移動する
ドイツ軍の輸送部隊の後ろにくっ付いて危険な場所を通り抜けさせようと
考えた小野特派員は子供達に早速の出発を命じる。慌ただしい出発だったが、
玄関の車寄せで見送ってくれているクラーラやペングィーノ、ブルーノ達の
姿が見えなくなるまで、車のリア ウィンドウに額をくっつけて手を振り続けて
いたそうだ。
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# by pincopallino2 | 2016-08-07 09:34 | Comments(0)
ムッソリーニの愛人クラーラ ペタッチ 6、
 そんなある日。静かな湖畔の別荘街に突然大声が響きわたった。
何事かと表に出てみると、隣の別荘の湖に面したテラスから小太りな
初老の女がこっちを向いて手を振り回しながら多分「泥棒猫メ」とか
「亭主を返せ」と言ったようなことを叫んでいる。
 真っ青になって怯えているクラーラに頼まれて小野特派員が出て
行くと、姿を消したようだが、一説によればその後何回も現れて
罵詈雑言を並べ立てた彼女はムッソリーニの正妻ラケーレであったと
思われる。
 彼女自身の手記によれば「夫は、本当に家庭的な好々爺であった」と
書いているが、実際には嫉妬に悩まされていたのだろう。
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# by pincopallino2 | 2016-08-05 18:31 | Comments(0)
ムッソリーニの恋人クラーラ ペタッチ 5
 ムッソリーニが毎日新聞の支局用として別荘を手配してくれたのは
最初の会談の時か、その後何回か会っているうちに決まったのか判然と
しないが、ムッソリーニは代償としてクラーラを同居させてほしいと
言い出した。新聞社といっても地方局だから特派員一人位だったろうし、
建物は4階建てだったから余裕は充分過ぎる程あったと思われる。
 ドイツ軍はクラーラ警護の為と称して親衛隊長以下4名の親衛隊員を
配置したので、日本側も支局員ということにして2人の日本人を
置いたが、これが一人はイタリアに勉強しに来ていた歌手、一人は
フラメンコ ギターを習っていたというから、およそ警備員には
似つかない優男であったようだ。
 1944年の夏、筆者は兄とともにこの別荘に行く。クラーラの兄の
マルチェッロが夫婦で2人の子供を連れて夏休みを過ごしに来るので、
遊び相手をする為だった。子供は5歳のペングィーノと4歳のブルーノという
男の子達だったが、兄弟、まったく似てなく、しかもマルチェッロ夫妻、
クラーラとも兄のペングィーノばかり可愛がって、弟のブルーノを粗略にする。
筆者は子供心にも義憤を感じていたようだが、周囲の人の話からも
長男はムッソリーニとクラーラとの間にできた子だろうと推測する。
 ちなみに ペングイーノ(ペンギン)という名前も正式の名前としては
おかしい。ムッソリーニも若い頃同じあだ名で呼ばれていたそうだ。



そんなある日、突然庭中に
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# by pincopallino2 | 2016-08-04 11:07 | Comments(0)
ムッソリ-ニの恋人クターラ ペタッチ 4.
 ムッソリーニからの直接の招待状とあって小野特派員は欣喜雀躍。
翌日9歳の長男を連れ、車で出かけた。 アルプスの麓の疎開先メラーノから
ガルダ湖南端に近いサロ’迄は距離にして200キロもない近さであるが、
今のように高速道路もなく、ドイツ軍やファシストに敵対するパルティザンが
横行していて、枢軸側である日本人も襲撃される恐れがあったから
回り道をしたりしてずいぶん時間がかかったんではないかと思う。
 とにかく時間通りに指定の場所に出頭するとムッソリーニは上機嫌で
出迎え、突然のサロ’共和国の出現でたいへんな住宅難の中、小野氏の為に
毎日新聞の支局としてガルダ湖畔に広大な別荘を手配してくれた。
 この別荘の手配が初めて会った時だったのか、何回か会っているうちに
そうなったのか判然としないが、ムッソリーニのこずるい思いが入って
いるように感じられる。
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# by pincopallino2 | 2016-08-03 18:00 | Comments(0)
ムッソリーニの愛人クラーラ ペタッチ 3.
 ひとめをしのんでいたクラーラ達には他に付き合う人もいなかったのだろうか、
小野家との仲は次第に親密となり、クラーラは戦争が終わったらムッソリーニと
一緒に日本に行って永住したいと何回も繰り返して言っていたそうだ。
ムッソリーニも日本に逃亡したいとの意思があったようだし、うそか本当か
知らないが、日本側にもムッソリーニの受け入れを画策している人が居たと
聞いたことがあるので、敗戦の面影が濃くなるにつれてイタリア人からの
信頼も薄れていくなかにあって、あるいはムッソリーニとクラーラとの間で
こっそりと日本行きの話しが出ていたのかもしれない。
 しかし両家の友情は2か月程でいったん終わる。11月の氷雨の降るある
暗い日、クラーラ達は忽然とホテルから姿を消してしまった。
小野家になんの挨拶もなかったのはドイツ側かムッソリーニが秘密裏に事を
運ぼうとしたのだろう。
 もうすぐクリスマスだという12月の吹雪の朝、ムッソリーニの伝令だという
軍服姿の男が突然小野家が宿泊している部屋を訪ねて来て、一通の封筒を
渡して帰っていった。
 開けてみると明日午後3時大本営(ムッソリーニの事務所)で会いたいという
ムッソリーニから小野氏あての書状だった。
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# by pincopallino2 | 2016-08-02 10:21 | Comments(0)
ムッソリーニの恋人クラ-ラ ペタッチ 2.
 日本の終戦は1945年だったが、ヨーロッパではそれ以前の1943年には
独伊枢軸軍の戦況が次第に思わしくなくなっていた。イタリアでは国王と
バドリオ元帥の画策によってムッソリーニが逮捕され、当時はローマに
沢山居た在留邦人達も北イタリア目指して避難し始めていた。
 そんな頃、筆者は元オーストリア領で西チロル州の州都でもあった風光明媚な
保養地メラーノに、特派員である父親をローマに残したまま母親、兄弟、姉妹、
お手伝いさん達と疎開していたが、ある日兄弟達と宿舎のホテルの前庭で
遊んでいると、オートバイに先導された黒塗りの車がクラクションを
ならしながら疾走してきてホテルに横付けになり、中から3人のイタリア女性、
クラーラ ペタッチとその実母、実妹が降り立ったが、いずれも秋の早い
メラーノには場違いの夏服を着て寒そうに肩をすぼめていたそうだ。
 ものものしい護衛とは裏腹にみすぼらしい恰好をしたクラーラ達に同情した
筆者のお母さんは早速自分の衣料や石鹸等の化粧品をもってクラーラ達の
部屋に行き、以後親交を深めることになる。
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# by pincopallino2 | 2016-07-30 15:23 | Comments(0)
ムッソリーニの愛人  クラーラ ペタッチ 1.
 彼らが果たして英雄であったかどうかは知らないが、まさに英雄色を好むで、
日独伊三国枢軸同盟の立役者ナチス ドイツの総統ヒトラーにはエヴァ
ブラウン、イタリアのムッソリーニにはクラーラ ペタッチという女性が公然の
恋人として有名だった。日本の東条に恋人がいたかどうかは知らないが、どこかの
待合だか料理家に行って食事の度に呼びつける馴染みの芸者位は居たかもしれない。
 クラーラ ペタッチのことはずいぶん前に書いたとおもうが、最近書棚の整理を
していたら、第二次世界大戦のヨーロッパでの終戦の頃、当時の毎日新聞ローマ
特派員の令嬢小野紀美子さんが子供心ながらクラーラとあった時の状況を 
「軍事問題資料」に書いた記事が出てきたので、抜粋して紹介することにする。
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# by pincopallino2 | 2016-07-29 18:30 | Comments(0)
憲法改定
 最近 戦争放棄をうたった「日本国憲法第九条」の改訂についての論争が
かまびすしいが、10代後半で太平洋戦争の敗戦の惨めさを味わった小生としては
改訂に賛意を抱かざるをえない。大体終戦の翌年、昭和21年に 発布の憲法は
大筋戦勝国アメリカによって作成されたもののようだから日本には国際紛争を
解決する手段としての戦争や武力による威嚇又は武力行使は永久にこれを
放棄するとあって、第2号では陸海空軍その他の戦力は保持せず、国としての
交戦権は認めないとあるが、その後70年経って船舶や航空機の大型化や
スピードアップ、通信の飛躍的な発達で地球も狭くなった今では世界の情勢も
大きく変わり、北方4島はロシアが所有権を主張し、本州のすぐ傍の竹島は韓国が
勝手に自国の領土だと言い張り、ことに南海では中国が周辺諸国に対してまさに
強盗的な侵略を行い、日本にも戦争を誘発するような行為を繰り返している時に
果たして口頭もしくは文書による交渉だけで紛争は解決できるのだろうか。
こっちがそのつもりでも相手が武力を行使してきたら改訂に反対する人達はどうする
つもりだろう。外国の軍隊に荒らされて、敗戦の時のような惨めな境遇は二度と
味わいたくない。だから国防費が高くなってもやむを得ないと思う。
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# by pincopallino2 | 2016-06-29 17:20 | Comments(0)