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日本人逃避行  4.
 1945年3月15日、ケーニッヒシュタイン以外の地へとの皆の切実な要望を聞いて
ベルリンの駐独日本大使館はケーニッヒシュタインとはエルベ川を挟んで対岸の
バッド シャンダウ(Bad Schandau)のホテルに20室を確保してくれた。
 ホテルには岩山をくりぬいた頑丈な防空壕があり、近くに医師もいるとのことなので
皆いくらか愁眉を開いたが、それも束の間で、空襲が日増しに激しくなり、防空壕で
夜を明かすことが多くなった。
 ロシアの機械化部隊が120キロの地点まで迫ってきているとの情報もあり、
今まで雪崩を打って東方から逃げてきていたドイツ人の数が急激に減り、
代わって地元民が手押し車に家財を積んで逃げて行く姿が多くなった。
町の入り口には対戦車用の土塁が築かれ、まさに戦場といった状況だった。
 丁度その頃、ドイツ宣伝省の東洋課長ヒンダー氏が訪れてきて、バッド シャンダウは
交通の要衝の為激戦地となる恐れがある。ヒットラー政権は敵の包囲攻撃を受けると
思われるベルリンを捨て、南ドイツのババリア地方の山中にたてこもっての最後の
決戦を予定している。もし一行が南独のチロル地方に移動を希望するなら、至難の
わざの鉄道輸送を宣伝省として斡旋し、落ち着き先も直ちに現地に赴いて確保
するとの申し出でがあった。ヒンだー氏はその時、当時まだ中立国であった
ソヴィエトに移ることも一策であるが、ソ連は過去に国際条約を破った例が多く、
又、日本に対して宣戦布告をするのも時間の問題であろうと忠告してくれた。
(この頃日本ではおろかにもソ連との不可侵条約を信じていた。なお地図で一行の
逃避行を辿られる方の為地名には今後現地語も添付することにする)。
by pincopallino2 | 2009-02-03 12:31
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