<   2008年 11月 ( 21 )   > この月の画像一覧
逃げまどうイタリア在留邦人  第2次世界大戦秘話 4
 イタリアが降伏した後、まだ友邦国のドイツに脱出したけれど
明日は目指すドレスデンに着けるという前の晩、
そのドレスデンの町が爆撃されて焼け落ちていくのを見ていた
人達の気持ちはどんなであったろうか。
 その後彼らがどこにどういうふうに逃げて行ったのかは知らない。
いずれにしろ敵軍に捕まって男女別々に収容されていたらしい。
お互いの消息も知らされなかったようだ。
 戦争が終わっていよいよ帰国できるという日の朝、
パリのある広場に連れ出された。はるか向こうの端にも日本人らしい
一団がいる。よく見ると長い間離れ離れだった家族だ。
 思わず大きな声で叫びながらお互いにかけよってひしと抱き合ったそうだ。
(この話、又聞きの又聞き) 
[PR]
by pincopallino2 | 2008-11-28 15:34
逃げ惑うイタリア在留邦人  第2次世界大戦秘話 3
 昨日書いた邦人達はその後ドイツのドレスデン目がけて逃げた。
いよいよ明日は目的地に着けるという晩、夜空が真っ赤に染まったので
丘の上にあがったらドレスデンの街が燃えていたそうだ。
米英軍による有名なドレスデンの大爆撃の夜だった。
[PR]
by pincopallino2 | 2008-11-27 10:32
逃げまどうイタリア在留邦人  第二次世界大戦秘話 2
 ある新聞社の特派員とその家族は親しい友人たちとまだドイツ軍が
頑張っている北イタリアに逃げ、とりあえずは家作を借りて住んでいた。
 そのうち朝になると「主人を返せ」とか「この泥棒女」とか叫んでいる
女の声が聞こえるようになった。見ると女が二三人居てどなっているが、
こちらが出ていくと物陰に隠れて黙ってしまい、家の中に入ると又どなりだす。
そんなことが毎朝続いたそうだ。
 この新聞記者、ムッソリーニと仲が良く、信頼もされていたので
北に逃げる時ムッソリーニから愛人のクララ ペタッチをあづけられたが、
それを知ったムッソリーニの正妻ラケーレが追っかけてきて怒鳴って
いたのだそうだ。ラケーレの手記によると夫は真面目一本槍の男で
とても家庭を大事にしたとのことだが、クララが彼の愛人であったことは
公然の秘密で、ムッソリーニがコモ湖畔のドンゴでパルチザンに
捕まった時も一緒におり、お前は逃げてもいいよと言われたにも拘わらず
自ら進んでムッソリーニとともに殺されている。
 この話、どこまで本当かわからないが、子供だった頃の回想として
聞いたので全面的に嘘ではないと思う。ただしムッソリーニがそこまで
日本の新聞記者を信用していたかどうかには多少の疑問が残る。
いずれにしても、1943年の秋、ガルダ湖に面した保養地サロに
ファシストの傀儡政府サロ共和国が設立された頃の話しと思われる。
[PR]
by pincopallino2 | 2008-11-26 15:32
逃げまどうイタリア在留邦人 第二次世界大戦秘話 1
 第二次世界大戦中、イタリアには今ほどでないにしても、
駐イタリア日本大使館、満州国大使館、ヴァティカン駐在大使館、
ミラノの総領事館を始めとして商社、日本郵船、満鉄(南満州鉄道)等の
駐在員や新聞社の特派員とその家族達、それに留学生等と、かなりの数の
在留邦人が住んでいた。
 始の内は枢軸同盟を結んで日本の友邦国だったイタリアも
戦況利あらず、敗色が濃くなるにつれて、これら在留邦人も
逃げださざるをえなくなった。
 脱出は大使、領事の命令一下組織的に行われたわけではなかったらしい。 
最初からの敵国なら帰国のしようもあったろうが、友好国が急に敵の米英軍に
占領されてしまったわけだし、逃げるにしても周囲は戦場だらけで、
パルチザンも沢山いるから到底日本まで辿り着けるとは思えない。
三々五々落ちのびる他なかった。
 ロシアが参戦する前に、シベリア鉄道、満鉄をのり次いで、今の韓国の
釜山から帰国した人も居たらしいが、大抵は戦火のヨーロッパを
逃げ回ったようだ。
 そんな秘話、また聞きの話しも多いが、記録として二三紹介してみようと
思う。
[PR]
by pincopallino2 | 2008-11-25 15:19
クロアチアの旅  15 ザグレブ
 2泊したオパティアから国境を越えてスロヴェニアへ。
アルプスの麓近くの保養地ブレッド湖から首都の
リュブリアーナに1泊して再びクロアチア領に入るまでの間
黄葉の盛りの田園風景はまるで絵のように美しかった。
ただ日本と違って赤は少ない。
 ザグレブは新市街と旧市街が繁華街イリツァ通りを挟んで
画然と分れている。
 新市街は緑が多く、道も大体碁盤状で、官庁、劇場、
博物館、大・公使館等が立ち並ぶ平坦なできれいな街だが、
カピトールとグラドという2つの中世の町が合併してできた       
旧市街は丘の上。各地方の旗をタイルで描いた屋根の
聖マルコ寺院、大火災の際奇跡的に焼け残ったマリア像を
飾る石の門、内部がレストランか喫茶店のような
聖カテリ-ナ教会、大統領官邸、国会議事堂等が狭い
区域の中にある。すり硝子の裏から絵を描いていく
クロアチア独特のナイーヴ アートの美術館、
有名な近代彫刻家メストロヴィッチの美術館も
時間があったら是非見たいところ。大聖堂の壁には
クロアチア語の古代文字が書かれている。


 
[PR]
by pincopallino2 | 2008-11-22 15:05
クロアチアの旅 14   ポルチェ
 ロビーニからポルチェまでは近いが途中に入り江があって
橋が掛かってないから道は遠回りになる。此処もアドリア海沿岸の
古い町と同じく、海に突き出た半島状の場所にある。
 ポルチェの聖エウフラシウス教会はユネスコの世界遺産。
エウフラシウスはメソポタミアのエウフラテス川の意味だが、
教会を建てた僧侶の名前でもある。この教会、アトリウムを挟んで
礼拝堂と洗礼堂が向かい合っている、今では珍しい原始キリスト教の建物。
アトリウムは古代ローマの独立家屋にあった広間で、スペインの
アンダルシア地方の家のパテオ(中庭)といったところ。大体家の真中辺に
あって天井は吹き抜け。周りを部屋が取り囲んでいる。
屋根がないのは日光を取り入れて周囲の部屋を明るくする為。
真ん中に向って少し傾斜しているのは雨水を地下の貯水槽に溜める為だ。
 教会の中に入ると正面の祭壇の上にモザイクの宗教画があって、
イタリアのラヴェンナの教会を思いださせるが、聖者達の頭上の描かれた
瑞雲が多すぎて煩わしい。教会内部は2列の列柱で3っつに分かれているが、
何故か左側の列柱だけが装飾されていて、右側はなにもない。
きっとお金が足りなくなったんだろう。この教会のまわりはお店が並んで
さながら日本の門前町といった感じ。
[PR]
by pincopallino2 | 2008-11-21 15:12
クロアチアの旅 13  ロヴィーニ
 プーラの35キロばかり北の海辺にある町ロヴィーニの旧市街。
真中の丘の上にある教会に祀られているエウフェミアは次のように
3ツの奇跡をもった聖女。
最初の奇跡: 紀元290年生まれの彼女はキリスト教に改宗し、
  ローマ皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教徒迫害にあって
  ライオンに殺されて殉教するが、ライオンは噛み殺しはしたものの
  食べようとしなかった(きっとお腹が空いていなかったんだろう)。
2番目の奇跡: 彼女の遺体は石棺に納められて800年頃まで
  コンスタンチノープル(今のイスタンブール)に置かれていたが、
  ある嵐の晩突然消え。ロヴィーニの海岸に小舟で流れ着いた。
3番目は: 村の男達が総出で彼女の石棺を運ぼうとしたがビクとも  
  動かない。そこへ牛を2頭連れた男の子がどこからとも現れ、
  易々と丘の上まで運んでしまった。
 石棺は教会に置いてあり、そばに奇跡を描いた絵が掛っている。 
[PR]
by pincopallino2 | 2008-11-20 11:26
クロアチアの旅 12  プーラ
 プーラはイストラ半島の南端と云っても良い町でオパティアからは100キロ近い。
ローマ時代には重要な基地であっただけに、その頃の遺跡がいくつも見られる。
ちょっとした丘の上にある野外の円形闘技場は2500人を収容した観客席や
床の部分は消滅しているものの外壁はほぼ完全な姿で立っていて見事。
 闘技場の坂を町の方に降りたらすぐのローマの城壁に沿って歩くと
双子の門、ヘラクレスの門が順に並び、その先にセルギウスの凱旋門がある。
この辺の豪族だったセルギウス家の功績を自画自賛して建てたものらしいが、
ローマやアンコーナに残っている凱旋門より小さくて貧弱。但し建設されたのが
紀元前27年と群を抜いて古いから凱旋門のはしりかもしれない。
 凱旋門の先隣りに喫茶店があって、表の椅子に男が一人坐っている。
よく見ると銅像で英国の文豪ジェイムス ジョイスなんだそうだ。
毎日のようにこの店にお茶を飲みにきたとのことらしい。ジョイスは
20歳を一寸過ぎた頃この町で英語の先生をしていたが、あまり好きな所では
なかったらしく、1年足らずで他所へ行ってしまったとのこと。それなのに
文豪がいた場所といって宣伝に使うなんて結構チャッカリした話しだ。しかも
彼が居たのは20歳を超えたばかりの青年の頃の筈なのに、銅像は中年の男。    
作家として有名になってから、前に住んでいた町が懐かしくて再訪した時の姿かも
しれない。ただし彼が実際に戻ってきたかどうかは知らない。
 凱旋門の先の賑やかな商店街をしばらく歩いていくと、ローマ時代フォーラム
だった広場に出て、ローマ時代の神殿が立っている。何回か修復しているものの
ローマ神殿の形式がよくわかる。隣には月の神殿が並んでいたらしいが、
そのあとにヴェネツィア風の建物が立っている。ヴェネツィアが統治していた頃の
市役所で現在でもプーラの市長の官舎になっているらしい。表札はクロアチア語と
並んで今だにイタリア語が併記されている。
[PR]
by pincopallino2 | 2008-11-19 12:51
クロアチアの旅 11  オパティア
 三角形のイストラ半島又はイストリア半島は北部が
スロヴェニア領だが、クロアチア側の付け根、リェーカから
10キロ位しか離れていないところにあるオパティアは 
はじめ家が35軒しかない、うらさびれた漁村だった。
1844年にリェーカの富豪が別荘を建てて日本の植物を
沢山植えてから有名になり、第1次世界大戦までの
オーストリア領時代にはハプスブルグ家の王侯貴族が遊ぶ
高級な海辺のリゾート地として華やかな雰囲気を醸し出して
いたそうだ。今でも豪壮な建物が並んで当時を偲ばせてくれる。
オパティアはクロアチア語で修道院の意味。べネディクト派の
修道院の聖ヤコブ教会の周辺から町ができていったからだ
とのこと。この教会、今でも残っているが廃寺。
 イストリア半島の周遊にはこの町を基点にするとよい。
[PR]
by pincopallino2 | 2008-11-18 11:27
クロアチアの旅  10 リェーカ
 パグ島からカーフェリーで本土に戻ったのは午後1時。これからリェーカまで
200キロ近く走らなければならないので途中で昼食をと思ったのだが何もない。
高速道路にのればドライヴインがあるが、海沿いでは約半道行ったセーニという
ところまではレストランはおろか人家もあまり見当たらない。腹ペコでついた
せーニは晴れていれば景色のよい海岸沿いの町だが生憎雨模様で肌寒かった。
 天気が悪いうえ途中で道路工事の為の交通渋滞に引っかかってリェーカの
目指すお寺トルサットの丘の聖母教会に着いたのは暗くなり始めた頃だった。
マリアさんが受胎告知を受けた家をある晩天使達が運んできたので、建てられた教会。
 マリアさんの家はその後又天使達がイタリアのロレートという町に運んで行ってしまい、
ロレートではその家を何回jか元のリェーカに返したが、あくる日には空を飛んで
またもどって来てしまうので、空飛ぶマドンナと言われ、たしかイタリア空軍の
守り神になっている筈。そのことを聞いた時のローマ教皇がこの教会に贈った
イコン(板絵)が祭壇に飾ってあるが、今の坊主達はそのイコンがどこにあるかも
知らない者が多い。
 リェーカの町の中にあるサン ヴィート教会は丸い外観をしていて、小さいけれど
土地の人は大聖堂と言ってあがめている。その昔あるばくち打ちが、うまく儲かり
ますようにと祈ったのに大負けしたので、キリストが掛った十字架に、このうそつきと
ばかりに石を投げつけたところキリストにあたって、血が流れ出し、男は地面が
割れて中に吸い込まれてしまったのだそうだ。キリストから流れ出た血は壜に入れて
教会が今だに保存している。
[PR]
by pincopallino2 | 2008-11-17 11:40