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日本人逃避行 17
 4月26日 午前10時頃米軍将校が訪れて来て、グラーフェナウ駅構内の
貨車の荷物が、米軍の進撃、ドイツ軍の退却によって解放された
外国人強制労働者達に狼藉略奪され、米兵がこれを阻止している。ついては
一行中の男子が現場に行って後始末をするようにと命じられ、米兵に引率されて
現場に行った。貨車に積んであった鞄類はあらかた持ち出され、錠前を壊されたり、
切り破られた鞄は残っていても、中の主な品物は持ち去られてしまっており、
不必要な物だけが20メートル四方に散乱していた。米兵は我々に命じて、その場に
残された物を取りまとめて近くの倉庫に収めさせた。貨車内には持ち帰りたい品物が
あったので、整理しようとしたが、米兵は荷物は全てこれから検閲する必要があるとして
手を触れさせず、正午近く引き揚げさせられた。この時一行中のI 氏は米兵に交渉して、
今後はこのような事態が再発しないよう監視してもらいたい旨を申し入れ、米兵も承知した。
我々の大半はイタリア駐在者で、一部はドイツ駐在者であった為英語は不得手で
あったが、I 氏はアメリカ在勤期間も長く、英語が流暢であったので、その後の米軍との
折衝に大いに役立った。
(この日の記録は結構長いので、3回か4回に分ける)
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by pincopallino2 | 2009-02-27 01:29 | Comments(0)
日本人逃避行 16
(4月25日の項  続き)
 山の日陰が長くなり、頭上を掠めて近くに着弾、炸裂する弾はまだあったが、
砲声は次第に静まったので、有志の者が丘陵の高台に登って偵察したところ、
避難していた町民達が町に向かって帰って行くので、一同胸をなでおろし、
一人の怪我人も出なかった幸運に感謝しながら、日没も近づいて空腹を覚え、
夕食をなんとか工面しなければならないので、昨夜の宿舎にする為森を出て、
一列縦隊で山道を町に向かった。
 その時前方にジープ(当時はそんな名前,知らなかった)が止まってMPの
文字がヘルメットに書いてある米兵が銃を構えて近づき、一行が日本人である
ことを確かめると拘束、連行して、小学校らしい建物に収容した。校庭には
武装解除されたドイツ兵が多数収容されていた。時折ドイツの戦闘機が低空飛行で
機銃掃射をするのに驚かされたが、夜半になって近くの民家に移されて所持品の
検査を受け、写真機、刃物等は押収されてしまった。
 日本と米国は交戦中であり、日本人として米軍の捕虜になることがたとえ
非戦闘員であっても、どんな覚悟が必要なのか、在欧の他の同胞は
こんな場合どうしているのか、軍人、軍属でもない日本人が敵の捕虜に
なった場合どうあるべきか、などについて誰も充分な知識がないので、
重なる戦火を逃れて命拾いはしてきたものの、或いは機会をつかんで
自決せねばならぬかと悲壮な決意を固め、同夜は飢えに寒さも加わって
家族ともども最悪の捕虜の第一夜を送った。ちなみにこの避難行動に同行して
世話してくれていたヒンダー氏は夫人とともに一行から離れて行方不明になって
しまった。
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by pincopallino2 | 2009-02-26 15:23 | Comments(0)
日本人逃避行  15
 1945年4月25日 続き
 正午前後は不思議なことに両軍の砲火が暫く静まって、小休止といった状態だったが、
午後になると再び激化した。小休止の間におそらく陣地の退却と進出が行なわれたのだろう。
午後には我々が潜んでいる場所から近い丘陵は米軍砲兵隊の陣地になったものと思われ、
隠れていた場所から見下ろせる谷間の道路を退却して行くドイツ機甲部隊に向かって、
新たに丘陵の上に陣地を構えた米軍からの砲撃が続けられ、退却するドイツ機甲隊からの
反撃は次第に弱まった。しかし思わぬ山の中や民家からヒットラー ユーゲント最後の抵抗と
してバズーカ砲が米軍陣地に打ち込まれると、その発射地点に米軍の砲火が集中して爆破
潰滅する場面が眼前に展開したりした。この砲撃戦は5時間近く続いたが,身近かで砲弾が
発射され、炸裂が繰り返される大きな恐怖と衝撃に子供たちは大小便を失禁し、泣いて親に
しがみつく有様であった。
(このあとで一行は米軍に捕まるが、その話しは明日にする)
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by pincopallino2 | 2009-02-25 11:35 | Comments(0)
日本人逃避行  14
 4月25日 グラーフェナウが戦場になることを予知した町の人々は早朝から家を離れて
町はずれの丘陵の森林内に避難を始めたので、我々一行も僅かばかりの食べ物と毛布を
持って、1キロばかり離れた森の中の斜面に避難し、あちこちの窪地、岩陰に三々五々
身を潜めた。
 午前9時頃、まづ敵の偵察機が現れ、9時半頃に数キロ南にある高速道路の交差点、
シェーンベルグ(Schonberg)の町が爆撃されたと聞いて間もなく、我々の頭上に
敵の爆撃機の編隊が現れ、それに追われるドイツ機甲部隊の装甲自動車の音が
次第に大きくなってきた。
 やがてドイツ軍の最後部、退却援助部隊と思われる砲兵隊が丘陵の高台に陣を布き、
追撃してくる連合軍に向かって砲撃を開始。重砲、速射砲、戦車砲、野砲、パンツー
フスト等と思われるあらゆる近代火砲が火を吹いて耳を聾するばかりとなった。
やがてその砲兵隊を目指して連合軍の空軍が爆撃を始め、更に連合軍からの砲撃も
開始されて付近一帯は近代戦の激戦場と化した。2,3百メートル先の農家がドイツ兵の
隠れ家と思われたのか連合軍の集中砲火を浴びて瞬時に炎上するのを見て、
これまでの旅の途中、空襲に何度も会って、爆弾や機銃掃射の洗礼を受けた我々も
砲弾、爆弾、銃弾が集中して炸裂する戦場の第一線の真ん中では、今にも一行の
隠れている場所にも爆弾の雨が降り、砲弾が飛んでくるのではないかと怖れ、
いよいよ最後の観念をせざるをえなかった。
(この日は殆ど1箇所にとどまったまま、ドイツ軍側、連合軍側、ついでアメリカ軍に
捕まるといったおぞましくも、目まぐるしい体験をしているが、長いので後半は明日にする)
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by pincopallino2 | 2009-02-24 11:40 | Comments(0)
キアッケレ  カーニヴァルのお菓子
 他の国でも同じだろうが、イタリアでもカーニヴァル用に色々なお菓子を作る。
地方によって異なるようだが、全国的に一番ポピュラーなのはキアッケレだろう。
簡単に言えば小麦粉を薄く延ばして適当な大きさに切り、油で揚げたものに
粉砂糖をまぶしたようなもので、カーニヴァル近くになるとどこのお菓子やでも
売っている。語源はおしゃべりと言った言葉から来ていると思うのだが、なぜ
そういうのかわからないし、いわれも知らない。
 いずれにしろ、そんなにメチャメチャに美味しいとは思えない。
 日本のひな祭りの頃の桜餅や五月の節句の柏餅なんかの方が余程
手がこんでいて美味しい。
 ケーキでもお菓子でも最近は日本のものが最高のようだ。
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by pincopallino2 | 2009-02-23 13:24 | Comments(2)
日本人逃避行  13
 4月24日 列車の都合がついたので、携行荷物を手に列車と
貨車から一昨日おろした車2台に分乗のうえ午前9時頃ツビーゼルを出発。
11時頃40キロ程南のグラーフェナウに到着したが、二台必要なトラックが
一台しか見つからないので、やむなく当地に留まることになり、町当局の
斡旋で町中の一軒家をあてがわられた。グラーフェナウは既に敵の
機械化部隊の進撃に備えて、町の入り口を防塞で゙固めているので車の
乗り入れが出来ぬ為、殆ど全部の荷物を貨車内にまとめて駅の構内に残し、
リュックサックと小さな手提げだけで宿舎に向かった。宿舎はドイツ
占領地域から拉致されてきた外国人労働者の宿舎であったようだが、
労働者は混乱に乗じて既に逃げてしまったらしい。不潔な土間に木製の
仮の二段ベッドがギッシリ並べられた部屋で、僅かに足を延ばして
横になれるのが汽車の中よりましとしなければならなかった。
夜半過ぎから前の道を次々に通過して南下するドイツ機甲部隊、
車輌部隊の轟音に妨げられて睡眠もままならず、連合軍の接近による
危険がいよいよ迫ってきたことを語り合って、不安極まりない一夜を明かした。 
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by pincopallino2 | 2009-02-21 18:43 | Comments(2)
日本人逃避行   12
 1945年4月22日 駅長達とも色々と相談の結果、これ以上
南の方に行くには、ツヴィーゼルで列車を捨て、グラフェナウ
(Grafenau)行の支線が出る郊外の駅迄トラックで行き、
グラフェナウに着いたら又トラックを雇ってパッソウ(Passau)に
行き、ドナウ川を渡って南下する他ないとi決定。
 まづ貨車から大事な物の入った手荷物を各自で降ろして
トラックに積み、残った荷物は貨車1輌に収めて駅長に
預かってもらった。勿論乗用車2台もおろした。
 その晩は幸いなことに粗末ではあるが駅近くのホテルの
食堂を使うことが出来たので、テーブルや椅子を寄せ集めた
上で寝たが、約1週間の車中泊から開放され、名ばかりとはいえ
洗面所も使用できたので婦人たちに喜ばれた。
 4月23日の夜もグラフェナウ行きの列車が出るのを待って
同じホテルの食堂でもう一夜を明かしたが、同宿していたドイツ軍の
女性兵士が疲労困憊仕切っているのを見て、ドイツの惨敗、
敵軍の接近を身近に感じた。
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by pincopallino2 | 2009-02-20 11:04 | Comments(0)
日本人逃避行  11
 4月21日: 前の日の爆撃でツヴィーゼル(Zwiesel)から数キロ先の鉄橋が爆破され、
修理の見込みが立たないとの事。日本人1名と一行を引率しているドイツ宣伝省の
ヒンダー氏が駅長と交渉を続ける。空爆の度数が増えたので、一行35名(男子11名、
女性10名、子供14名)のうち婦女子は昼間、鉄道線路の脇の地下の水道坑内に避難し、
夜は危険を承知の上で車中に眠ることにしたが、幾分春めいてきていたた気候が逆転し、
その上高度約600メートルのババリア山地なので夜間の冷え込みが激しい。
列車の中で仮眠している間も゙足踏みをし、手をこすって夜明けを待ったが、
その間にも空襲に脅かされて、車外に飛び出すことしばしばで、一行の疲労と憔悴は
募るばかりだった。
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by pincopallino2 | 2009-02-19 16:16 | Comments(0)
日本人逃避行  10
 暫く辛い逃避行の話しが続くが、実際に現地で見、体験した
ドイツ軍最後のあがきという貴重な資料なので、読んで欲しい。

 4月20日:晴天のうえ、ヒットラーの誕生日の為、大規模な
空襲が予想されたので男性数人が列車にとどまり、他の男達は
婦女子を連れて1キロほど離れた丘に避難した。正午近く、
予想通りに爆撃機の大編隊が頭上に迫って、爆弾の雨が
駅構内に停車中の列車、特に軍用貨車、燃料タンク車めがけて
降りそそぎ、土柱と轟音とともに貨車、客車が中に舞い上がった。
日本人が避難していた丘の近くでも爆弾が炸裂シテ、爆風に
押し倒されたり、うつぶせになった身体に土砂をかぶった。
 幸いにして全員、怪我もな勝ったので、そのまま車中での
宿泊を続けたが、連合軍が進撃してきて、その飛行基地も
近くなり、空襲警報もなしに敵機が飛来するので、昼間は
皆で耳、目を緊張させ、夜は交代で不寝番をせざるをえなかった。

(日本でのアメリカ軍は焼夷弾を多用した。明らかに非戦闘員の
一般市民の家を焼くことを目的としていたとしか思えない)。
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by pincopallino2 | 2009-02-18 10:56 | Comments(0)
日本人逃避行  9.
 暫く休んだ第二次世界大戦末期のイタリア在留邦人の逃避行を再開する。
1945年(昭和20年)4月19日 朝、山間の国境駅(現在チェコ領の終点
ジェレズナールダ(Zelezna Ruda)に到着。色々と機嫌をとって運転を
続けさせていた運転手がチェコに引き返す用事があると言って、機関車を
置き去りにしたまま立ち去ってしまった。新しいドイツ人運転手を探す一方
携帯してきた食糧が底をつきかけてきたので、その調達に近くの村落に
出かけてみたが、パン一切れも手に入らず、子供たちは空腹を訴え、
親たちはただ当惑するばかりの切迫した事態になった。
 やっとのことで、列車の運行の目鼻がついて、ドイツ領内に入り、
バイエルン山中のツヴェーゼルの駅に着いたが、軍の貨物列車や
軍用列車が錯綜して混乱状態になっていて、この先への運行が危ぶまれ、
とにかく、退避線に入って目鼻がつくまで車中生活を余儀なくされた。
 敗戦色が濃くなってドイツ内でも配給券での黒パンやマーガリンの
入手が困難になったが、幸い一行中の篤志家がイタリアから温存して
きていたコーヒーや煙草を提供してくれたので、食糧と物々交換をし、
糊口をしのいで、空腹を少しでも癒すことができた。
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by pincopallino2 | 2009-02-17 18:49 | Comments(0)