<   2009年 09月 ( 25 )   > この月の画像一覧
オバマのオリンピック開催地決定への横車
オリンピックの開催地は都市単位で国ではないと聞いていたが、
10月2日だかにコペンハーゲンで開かれる2016年の開催地の
決定会議にアメリカの大統領オバマが夫婦で出席するとのこと。
 大国を振りかざしてシカゴに決めさせる魂胆が丸見えだが、
そんなオリンピック委員会に強引な横車を押してもよいものだろうか。
逆にシカゴが劣勢なのかもしれない。いずれにしろ、アメリカという
大国の大統領の権威を自ら穢している感じだ。 
[PR]
by pincopallino2 | 2009-09-30 11:05 | Comments(0)
第二次世界大戦中もイタリアに残っていた日本人 3.
 外交官I氏はローマ在任中にイタリア女性と恋に落ち、結婚してしまったので
終戦の際も日本への帰国をあきらめ、ローマに残った。当時の外交官達は
スイスの銀行に預金していたが、引き出す暇もないので彼に通帳等をあづけて
ローマから逃げ出した。
 残ったI氏は職もないまま、女房と男女二人の子供を養わなければならなかった
ので、皆からあづかったスイスの銀行の預金を使い果たし、ピストル自殺を遂げて
しまった。
 そんな悲劇の中でも子供達はなんとか成長し、男の子は戦後出来た大使館の
前身、日本外交代表部に雇われたが、たまに来る日本のお偉方に片言に近い
日本語で「お女郎さんは如何ですか?」等と言って相手を驚かせていた。
彼とは無二の親友になった。彼は父親の故郷日本に限りない執着を覚え休暇をとっては
日本に来ていた。お嫁さんを探していたらしいが、重量挙げの選手で、海坊主みたいな
顔をしていたから女性は誰も寄り付かず、いつもガッカリしてイタリアに帰ってきた。
混血なのに自分は100%日本人だといって、イタリア人とよく喧嘩をしていたが、
自宅の床にござを敷き、日本の机の前に正座して習字をしていた。
父親恋しのあまりかイタリア人の母親を嫌い、看護婦をしていた姉さんとも仲が悪かった。
 その後彼は盲腸炎をこじらせて腹膜炎をわずらい、一人寂しく死んでいったが、 
彼のお墓の面倒を全く関係のない日本人がみたという話を聞いたことがある。
 彼のお父さんの話、なぜヴァティカン大使館あたりに金銭的な援助を頼まなかったのか等
疑問の点は多々あるが、話したくないのか彼からは何も聞き出せなかった。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-09-29 10:53 | Comments(3)
第二次世界大戦中も イタリアに残っていた日本人  2
戦前に上海だかで知り合ったイタリア人と結婚した日本女性。
たしか日本の姓はコヤノさんと言ったと思うが、国籍がイタリア
だったのでそのままローマに残留していた。
 戦後日本の外交代表部がローマに出来た時、代表部から
頼まれて、たまに訪伊する日本人の世話をしていた。
当時の海外旅行はやむをえない公用の者にしか認められ
なかったので、尋ねて来る旅行者は政府の役人や大会社の
社長クラスが多かったが、何分粋も甘いも知り尽くしたような人柄
なのでたいへん喜ばれていた。
 そのうち留学生もやってくるようになったが、何分1ドル 360円の時代、
そのうえ持出せる外貨の額にも制限があって、殆どの者が苦労していた。
そんな苦学生達の面倒も良く見て、自分の家に留めたり、食事を
つくってやったりし、皆から感謝され、慕われていた。
 恐らく今はもう亡くなっていると思うが、娘さんは生きていると思う。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-09-28 10:53 | Comments(0)
第二次世界大戦中もイタリアに残っていた日本人 1.
ヴァティカン市国は中立国で、日本と国交があったから
戦争中も相互に大使(その頃は公使だったのかもしれない)を
交換していて、当時の大使は金山と言う戦後韓国大使になった
人だった。帰国もままならない時代だから戦争の間ズット
ローマに居たらしい。子宝に恵まれ、奥さんとの間に16人だかの
お子さんを儲けた由。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-09-25 10:23 | Comments(2)
ローマの日本料理店
 昨日書いたライスカレーを見つけた頃はローマには
日本料理店がなかった。恐らくイタリア中に一軒もなかったと思う。
どうしても日本食が食べたくて病気になりそうだと言うお客さんは
その頃ローマに4軒あった中華料理屋でごまかすか、自宅に
連れて行って和食を食べさせるしかなかった。今みたいに日本料理の
食材なんか売っていなかった時代だから日本からおでんだの
すきやきまがいだのの缶詰を一杯買っていって、食べさせると
涙を流して喜んだ。
 あるホテルでは味噌汁の素だか缶詰だかを取り寄せて日本人旅客の
朝食に出していたが、おかげで日本人の宿泊客が増えたそうだ。
 そのうち、ヴィア ヴィッソラーティに五軒目の中華料理屋が出来たが、
この女かみさん、東京の後楽園の近くの中華料理屋の娘で
日本のことはよく知っているからカツ丼を作って売り出したらバカ受け。
 僕もよく食べに行ったものだ。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-09-24 10:22 | Comments(0)
ローマのライス カレー
 始めてローマに住んだのは今から50年近く前。
一人暮らしの頃で、時々カレー ライスを食べたくなったが、何しろ
日本料理の店もインド料理の店もない頃だからどうしようもない。
 カレー、カレーとローマ中を探し歩いて、やっと一軒見つけた時は
嬉しかった。憧れのカレー ライスがあったのは不思議なことに
オーストリア料理の店だった。カレーの辛さは行く度に違って
飛び上がるほど辛い時もあれば、カレー粉を入れ忘れたのでは
ないかと思う日もあったが、とにかくカレー ライスまがいのものだった。
今日はカレー ライスはないよと言われることもしばしばあった。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-09-23 10:28 | Comments(3)
料理学校の訓練
 北イタリアの景勝地ストレーザにある国立のホテル・レストラン学校には
毎年行って先生がこしらえる食事をご馳走になった。
 4階建ての校舎の一番上が60人位が坐れるサーヴィスの実習場になっていて、
そこで食事をするのだが、給仕をしてくれるのはサーヴィス科の生徒達。
最近は女の子も増えてきた。サーヴスする料理ごとに上着の色が
白、赤、緑、カーキーというように変わる。
 先生が絶えず歩き回っていて、サーヴィスの悪い子供には注意するが、
我々は正式の客でなく、実験台みたいなものだから、その厳しいこと。
遠慮会釈なく叱っている。
 他の学校は知らないが、イタリアのサーヴィスはこうやって生まれて
くるのだなと行く度に感心してみていた。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-09-22 10:36 | Comments(0)
ローマの映画館
 ローマで始めて映画を見に行った時はビックリした。
上映中も皆煙草を吸っている。休憩時間になっても
余り明るくならないから、上を見たら一面の星空だった。
天井を全部開けて空気を入れ替えているのだ。
あっけにとられて見ていたが、雨の時はどうするのだろうと
気になった。何分50年近い前のことだから、そんな
映画館はもうないだろうし、ビルの一階などにある映画館は
空調完備だが、いずれにしても面白い体験をした。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-09-21 10:42 | Comments(0)
長野のイタリア料理
 昨夜は長野市居町55のイタリアン レストランで
素晴らしく美味しい料理を食べた。
 前菜も独創的で見事だったが、茸のタリオリーニ、
メインのボッリート ミストは3種類の肉で、
好き好きで付けるようにとムスタルダ(北イタリア
クレモーナ特産の果物の芥子漬けとサルサ ヴェルデ
(バジリコの葉をすりつぶしたものジェノヴァが有名)が
付いている。
 チーズは3種類。異なった味の蜂蜜が2種類添えてある。
おしまいはケーキとコーヒー。
 白、赤のワインも珍しいものが出て楽しい食事だった。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-09-19 18:50 | Comments(0)
レストラン カミルッチァ
 前にも何回か書いたことがあるが、
 ローマ、モンテ マリオにのぼる裏道、ヴィア カミルッチァにカミリッチlァと
道の名前をつけた高級レストランがあった。坂道の途中から門を入ると
玉砂利を敷いたヘヤピン カーヴの道が玄関に続き、そこでアペリティフの
サーヴィス。2階の客席に上がる階段はスロープで、てすりのところが
天井までガラス箱になっていて、中で小鳥が飛んでいた。
 客席の前は広いテラスになっていて、プールがあり、夏はその上に
舞台を作ってバンドが演奏する。勿論テラスでも食事が出来る。
 高台だから夏は涼しく、素晴らしいローマの町の眺望が広がる、夜は
目の前のマリアさんの金色の像が照明されて浮かび上がって綺麗だった。
 この店、実はムッソリーニが愛人のクラーラ ペタッチと過す為の別荘で、
寝室だけは開かずの間だったが、噂によると壁は勿論、床から天井まで
全て鏡張りなのだそうだ。ムッソリーニも案外悪趣味な男だったのだろう。
ペタッチの家族達も構内の後ろの家に住んでいた。
 残念ながらこのレストラン、かなり前に廃業して、建物も2,3年前に
壊されてしまった。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-09-18 10:27 | Comments(2)