<   2009年 10月 ( 22 )   > この月の画像一覧
終戦の頃日本に居たイタリア人  その三
 ベルターニという男が居た。潜水艦の乗組員で日本に来たが
帰れなくなったらしい。日本への途中、アフリカの沖合いで
浮上していたら、日本の潜水艦とすれ違って、お互いに手を振って
別れたと言っていた。彼は戦後日本でイタリアン アイスを売り出し
結構儲けたようだが、会社を売ってアメリカに行ってしまった。
 ローマで知り合ったレナートは飛行機で日本に飛んできたが
日本が見えてきた時に燃料がなくなって海上に不時着。
日本軍に助けられたのだそうだが、当時は同盟国の兵士だったので
箱根の宿屋に収容されて大歓迎を受け、おかげで大の日本贔屓に
なった。それは良いが、イタリアに帰っても戦後の不景気で仕事がなく、
ローマでポン引きをやっていた。45年ほど前ローマに着任して2日目、
夜の町をブラブラしていたらいきなり日本人かと声を掛ける男がいる。
いかにもポン引きらしい格好をしていて、日本のことを盛んに褒めたたえ、
ビールをおごるというので始めは疑ったが、そのうちに仲良くなり、
お陰で夜のローマに精通するようになった。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-10-25 10:59
終戦の頃日本に居たイタリア人 そのニ
 今東京の青山や代官山に大きな店を構えているアントニオは親爺が
船乗りで戦争中日本に来たはよいが帰れなくなって、そのまま終戦を
迎えた。喰うに困って厚木だかどこだかのアメリカ軍の基地の前でイタリア
料理屋を始めたらバカあたりをして、東京、麻布の材木町に移ってきたが、
白赤チェックのテーブル カヴァーを使っていかにもイタリア レストランらしい
雰囲気をだしたので、イタリア大使館の館員達も通ってきてまたまた大当たり。
まだイタリア料理屋なんて数が少ない頃だったから大もうけをして、近くに
宮殿みたいな店をこしらえた。この親爺、死んでしまって息子が跡をついで
いるが、ある時親爺に料理のことを訊ねたら「俺は船乗りだもん、料理のこと
なんか知るものか」と答えた。彼はシチリア人で、日本の女性と結婚していた。
 関西にも同じような男が居て、ドンナロイヤというレストランを神戸に開いたが
これも成功して一時は高級料理店として有名だった。彼も死んでしまって、
跡を日本人の妻との間に生まれた息子か孫が継いでいる筈。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-10-24 01:27
終戦の頃日本に居たイタリア人 その一
 昨日書いたジュリアーナ ストラミジョーリさんもその一人だが
第二次世界大戦が終わった際、国へ帰りたくても便がなくて日本に
残っていたイタリア人はかなり居た。
 日独伊三国枢軸同盟の時代に日本に来た交換留学生では
ピアチェンティーニ氏、お父さんが検事総長だかの要職についていたが、
本人はプロテスタント教徒だったので、在留イタリア人の中では異端視
されていた。神経質そうな顔をしていたが、頭の良い人で、英。独、仏語にも
通じていた。戦後日本で貿易会社を作ったが、三越がヨーロッパに進出するに
あたって顧問となり、ローマ支店、パリ支店の開設に尽力したようだ。
 シルビオ プラーガ氏は防衛庁とイタリアの有名な火薬会社スタッキーニの
間に入って貿易の仲介をしようとしていたが、当時、共産党の力が強くて
組合のストの為スタッキーニ社は潰れてしまった。彼は北イタリア、メラーノの
出身だったから寒さには慣れている筈なのに、シベリア鉄道で日本に来た際
マンチューリ(満州里?)についた時、唾を吐いたら地面につく前に凍ったと
話していた。彼は心臓発作かなにかで夜テレヴィを見ながら死んでしまったが、
訃報を聞いてイタリアから親戚縁者が駆けつけ、夢中になって遺産を探して
いたのには驚いた。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-10-23 16:11
ジュリアーナ ストラミジョーリ さん
 日独伊三国同盟の頃日伊交換留学生として来日し、京都(帝国)大学で
仏教美術だかを研究した女性。
 僕が彼女に始めて会ったのは終戦の前の年、東京、九段の日伊文化会館に
イタリア語を教えてくれと頼みに行った時だった。その頃のイタリア文化会館は
今のように大きくはなかったが、外壁がクリーム色の瀟洒な建物だった。
 呼び鈴を押すとまづお母さんのマリアさんが出てきて、用件を伝えると
ジュリアーナさんに変わり、丁度この次の日曜日からイタリア語の初期の
講習会がこの会館で始まると教えてくれた。この親子が僕が始めてみた
イタリア人だった。
 その後ストラミジョーリさんは帰国できないままアメリカ軍の司令部か何かに
勤めていたが、我々学生のたっての要望で東京外語の外人教授になり、
イタリア語を教えてもらった。
 やがて外国映画の輸入が出来るようになると、彼女はイタリア映画社を
設立し、イタリア映画の名作の数々を輸入して日本の文化の発展に貢献し、
そのため、日本政府から勲章を授与されている。
 晩年はイタリアに帰って自適の生活を送っていたが、今は鬼籍の人と
なってしまった。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-10-22 12:38
僕がイタリアのことを勉強し始めた頃 
 僕がイタリアに興味を持ったのは第二次世界大戦中イタリアが日独伊三国同盟から
脱落して米英仏等の連合国側に降伏した時。旧制中学の5年生の秋だったが、当時
勤労奉仕に行っていた軍需工場をさぼって東京、九段にある日伊文化会館に
イタリア語を習いに行ったが、そのうちに面白くなって翌年東京外語のイタリア科に
入学してしまった。
 丁度終戦の年で、外語は入学試験を受けた校舎が空襲で焼けてしまい、合格したのか
不合格なのか通知が来ないので随分心配した。
 やっと合格通知が来て、校舎は上野の美術学校に間借りしたものの、イタリア語なんて
人気がないから新入生は5,6人しかいない。上級生はまだ兵役から帰ってきていないので
学生の数は寥々たるものだった。
 外語のイタリア語部だというと、皆から「あんな貧乏国のことを勉強しても将来喰うに困るよ」
とか「泥棒の国のことを勉強してどうなるんだ」等と馬鹿にされたものだ。
 アメリカに占領されていたから世はアメリカ一辺倒。なんとかしてイタリアのことを一般の人に
知ってもらおうと毎日のように友達の下宿に集まって相談していた。
 当時流行りだしたピッツァがアメリカ軍から伝わったものだからピザ、ピノッキオが
ピノチオと言われていたが、やがてピノチオがピノキオになって少しイタリア語らしくなったなと
皆で喜んだものだ。今にして思えばイタリア語も習い始めた頃なのに随分おこがましい話しだ。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-10-21 12:36
まづい機内食
 日本から南廻りでヨーロッパに往復した頃は各駅停車みたいに
方々の空港に降りたものだが、夫々の区間で食事が出、食べきれないとの
声があがったほどだった。結構美味しくて、航空会社の組合であるIATAから
余り贅沢にならないようにと規制された位だ。
 それなのに最近の機内食はまづいに尽きるだけでなく、食べられない。
勿論ビズネスやファースト クラスでは美味しいものをだし、サーヴィスも
まあまあだが、エコノミー クラスはひどい。
 先週、久しぶりにアリタリアのエコノミー クラスに乗った人の話しによると
成田行きの便なので日本人が多く、日本食を多めに積んでいたそうだが、
その日本食がまづくて食べられない。洋食に変えろといっても数が少ないので
残っていない。遂にお客さんが怒鳴りだしたそうだが、洋食も鶏肉が変に臭って
食べられない。ヨーロッパ内を飛んでいる便の機内食の方が余程上等だ。
 食の国の航空会社アリタリアがまづい物をだしたら観光の面でも逆効果だろう。
 機内食の質の低下はどこの航空会社でも同じようなものだが、各社とも
安売り競争に走っているから、まともな食事が出せない。
 もはや時代はサーヴィスより、安く売ることに夢中な状態になっている。
その見返りが機内食ならまだ良いが、整備の方にまで及んでくると危険だ。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-10-20 13:21
結婚式
 一昨日、結婚式に招ばれた。場所は東京、文京区、関口台町の
カトリック大聖堂。前の組が終わるまで、横の控え室で待つ。
 ハレの日だから待っている間の雑談も声が高くなって笑い声も混じる。
教会の世話係のようなおばさんがやって来て、壁の向うの教会に聞こえるから
静かにしろとまさに叱る感じ。前の結婚式はもう終わって教会には誰もいないのに、
少しくらい、おしゃべりや笑い声が聞こえても良いじゃないか。
イタリアその他のカトリック教国での結婚式に参列したことがあるが、
みんな陽気に話しているし、こんなうるさいことをいう奴は教会の人間でも
いない。さて式場に入る段になると他のおばさんが、教会は神聖な場所
だから静かにして、こういう風にしろと注意事項をタラタラ述べる。
西洋の和気藹々たる雰囲気なんか微塵もなくて、こうしてはいけない。
ああしてはいけないと子供にいうみたいな注意事項ばかりを述べ立てる。
 キリスト教に馴染みのない人が大いせいかもしれないが、何故偉そうに
あんなことをいうんだろう。新郎側は右側に、新婦側は左側に一列に何人づつ
とまで指示されてなんだか刑務所に入れられるみたいだった。
 結婚式自体も一つの型が出来ていて、実にスピーディに終わる。
 家内の両親の骨を置いてあるだけに、このカテードラルには良く来て
ミサもあげて貰ったりしたが、昔はもっと神と人間がもっと自然に触れ合う
雰囲気だったのに、カトリックも随分俗化したものだと思う。
 披露宴は道一つ隔てたフォーシーズンズ。従業員は皆親切だが、
お客様の意向にそうより、カテードラルと同じように自分達のひいたレールに
お客様を乗せようとする気持ちが丸見えで、どこか慇懃無礼の感じがした。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-10-19 13:15
紅葉(黄葉)
 北半球では紅葉の季節だ。日本でも北海道や高地では
今が真っ盛りだろう。もう終わった所もるかもしれない。
 日本の紅葉は赤と黄、それに常緑樹の緑が混じって美しい。
アメリカも綺麗だし、カナダの楓の葉が真っ赤になるのも見事だ。
 あまり気がつかないかもしれないが、葡萄の葉も美しく紅葉する。
イタリア、ピエモンテ州のワイン地帯、ランゲ地方は起伏する
丘の上が見渡す限り一面の葡萄畑で、秋には美しく紅葉するが、
葡萄の樹の種類で夫々色が違い、中には紅葉しないのがあるから、
中世の古城をいただいた丘の一つ一つが素晴らしいモザイク模様を
描き出す。近景のへーぜル ナッツの林、遠景のアルプスの山々と
併せて得もいわれない美しさになる。
 スロヴェニアには夏冬何回も行ったが、昨年訪れた時の秋の
景色には驚いた。黄色が主体だから黄葉だが、国中が黄色に
燃える。それまでは大した景色ではないと馬鹿にしていた
スロヴェニアが黄葉のお陰でとても綺麗な国だと始めてわかった。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-10-17 15:00
イタリア 秋の味覚  その4
マロン グラセーは当たり前のことだが、新栗が出回った頃が一番美味しい。
マロン グラセーといえば普通フランスのものを思い出すが、ベトベトしている
フランス産に比べて、イタリアのは乾いていて砂糖でコートしてある。
 栗を素材にしたケーキも沢山あって、ローマの下町Via Chiavarにある
何の変哲もないレストランでデザートに出たケーキの味は忘れられない。
 日本では長野県小布施にある紅茶専門店のモン ブランが絶品だった。
 僕は茹でた日本の新栗を皮をむきながら食べるのが好き。ホックリとした
舌触りと栗本来の味がたまらない。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-10-16 11:55
イタリア 秋の味覚  その3
 11月 になるとムスタルダが出まわる。たしか1日から売り出すと
聞いたような気がするが、確かではない。
 ムスタルダは芥子という意味で、簡単に言えば新鮮な果物を丸ごと
芥子漬けにしたもの。何でも一回辛子漬けにしたものを一週間程で
洗い流し、改めて辛子漬けにするのだそうだ。漬けておく時期は
よく覚えていないが、最低2ヶ月はかかるらしい。
 始めて食べた時は口の中で原子爆弾が破裂したみたいだったが、
慣れると病み付きになって止められなくなる。但し最近は甘いのが
主流になってきたようだ。
 売り出しが丁度狩猟の解禁時期と重なるのでジビエ料理の付け合せに
使うがステーキ等と併せても美味しい。すりつぶしたものを一寸暖めて
ジェラートにかけると絶品だ。
 北イタリアのクレモーナの特産品。クレモーナは昔から弦楽器の生産でも
有名な町で、ストラヴィデヴァリ、グアルネッリ、アマーティ等の名工が輩出した。
 彼等の傑作が市役所に保管されており、使えなくなってはと音楽学校の
教授が毎朝30分位弾いて素晴らしい音色を聞かせてくれる。
[PR]
by pincopallino2 | 2009-10-15 10:14