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イタリアの大晦日
 今日は大晦日。昼間は掃除や何かで忙しい。たしか江戸時代の本に一年中綺麗に
掃除していれば、なにも大晦日になって慌てる必要はないと書いてあったが、
凡人にはそういかない。たしか漢文の時間に習ったのだと思うが「徐日に講起す」と
いうのがあって、ある弟子が大晦日に先生の所に挨拶に行って、来年からは
論語を教えていただきたいと言ったら、なにも来年まで待つ必要はない。今からやろうと
早速始めたという文章を読んだことがある。
 いずれにしろ、僕は年末から正月の日本が好きで、まづは家に居ることにしている。
 方々のお寺でならす除夜の鐘を聞くのも好きだ。初詣でに行く人の下駄の音が
まじったりするのも良いものだ。
 ローマの大晦日は賑やかだった。12時になると、一年のうちに割った皿などを
窓からおもてに放り出す。大体がマンション的な集合住宅だから6階、7階といった
上の方からも降ってくる。道路は瀬戸もののかけらだらけ。危なくて歩けないし、
車も通らない。でも元日の朝には綺麗に掃除されているから清掃人はたいへんだろう。
法律で禁止されているが、誰も守らない。
 ナポリはもっとすごかった。家々のテラスで爆竹をならしながら瀬戸ものを放り出す。
すさまじい音になって、最近見に行った人の話しによると、停めてあった車の
盗難予防装置がなりだしてしまったそうだ。
 僕が行った時には、街角で爆竹を売る屋台が方々に出ていたが、悪い奴が居て、
今買った爆竹に火をつけて屋台の中に放り込んだから屋台は爆発。辛うじて逃げた
親爺はかんかんに怒っていたが、やった奴は逃げてしまって誰だかわからない。
 12時より前でもマンションの上の方から車めがけて爆竹を投げつけるから
危なくて走れない。
 12時を過ぎて10分も過ぎるとナポリの町全体が煙に包まれて見えなくなってしまったが、
その煙が海の方に流れていくのは情緒があった。
 泊まったホテルは眺望の良い丘の上にあって、当時はすぐ下が公園だった。
チェックインしたのは7時頃だったが、その時から二人の若い男女が公園のベンチに
坐っていたが、激しい爆竹と瀬戸ものの騒音の中でも抱き合ってキスしていた姿が
今でも目に焼きついている。 
(大晦日は真夜中のパーティに備えて殆んどのレストランは夕食時間に開いて
いないから日本から行く人は気をつけること)
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by pincopallino2 | 2009-12-31 11:55
ローマに赴任した頃頃の思い出  7
 大家の女性は1週間経っても家を明け渡さない。
約束が違うと抗議しても、その都度理由をつけてがんばっている。
 若い頃はバールでレジをやっていたそうだが、したたかで参った。
出ていかないから私物を取り出すわけにもいかず、スーツケースに
入れたままにしておいたら、留守中に中をあけて気に入ったものを
持っていってしまう。一応何をもらったよというからまだ良いが、
一番困ったのは寝る場所で、何しろ狭い家にベッドが一つしかない。
仕方ないから居間のソファに寝ていた。ウッカリ出しておいた
下着類を留守中に洗濯しておいてくれたのはよいが、ナイロン製の
ものにもアイロンをかけるので着れなくなってしまった。
 そのうち、前に飼っていた犬に噛まれたあとだと云って太ももを
見せたり、ローマでは愛をするのにお金がかかるんだなどと
売春まがいのことまで言い出したが、ポルティエーリ(マンションの
管理人兼玄関番)の夫婦が見るに見かねて注意してくれたので
やっと出て行った。
 やがて家族が来て、当事は高級住宅街だったモンテ マリオに
家を見つけたが、この女性、引越しする時にも色々と文句をつけて
敷金を返すまいとがんばった。
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by pincopallino2 | 2009-12-30 12:48
ローマ赴任の頃の思い出  6.

 正式の家は僕よりローマに詳しい家内が来てから探すことにしたが、
まだ間があるので、仮住まいのネグラを探さなければならない。
とはいえ、短期で貸してくれる所は少ないので困っていたところ、
新聞におあつらいむきの広告が出た。
 早速電話をして行ってみると、ヴィア コリオラーノと通りの名前は
きれいだが、サン ジョヴァンニからフュミチーノに移る前の飛行場が
あったチャンピーノに行く途中の場末の町。家は1階(日本式に云えば
2階)だが、小さな寝室、居間、浴室、台所と殆ど家に居ない一人者に
とっては誠に都合良く出来ている。大家は一人暮らしの女性で、
夏の間友達の家に避暑に行くのでその間だけ貸したいとのこと。
秋口には家族が来る予定なので、早速借りることにした。
 交通規制の為、ローマのような大都会では昼間トラックが入れない。
どうしてもの時はお金を払って特別の許可をもらうのだとのことなので、
引越しは真夜中。まるで夜逃げみたいだった。
 ところが、越して行ったら僕と入れ違いに出て行くと云っていた
大家の女性がまだいる。(後は明日書きます)。
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by pincopallino2 | 2009-12-29 11:55
ローマ赴任の頃の思い出 5
 24万回のキスという歌が流行っていた頃、
パタタ、パテティ、パタティーナ コメ テ と
口ずさんでいたら、傍に居た例のお抱え運転手の
若いのが「俺のことを云っているのか」と血相を
かえてつめよってきた。
パタータはジャガイモ、コメ テはお前のようなと
いった意味だから、ジャガイモも相手に向かって
云ってはいけない言葉なんだなと、その時
始めて知った。
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by pincopallino2 | 2009-12-28 11:40
ローマ赴任の頃の思い出  4
 昨日紹介したローマのお抱え運転手。ある晩尋ねてきて
これから子供を生んだばかりの夜の女をからかいに
行くんだが、一緒に来ないかと誘う。見れば悪ガキの子分を
数人連れている。相当な悪趣味だとは思いながらもついて行った。
 その頃のエウルはまだ建設途中で、工事現場や原っぱが
沢山あった。そんな原っぱに一軒だけポツンと立っている
半分くずれかけた小屋に行くと戸を叩いて何か云っているが、
僕は一寸離れた所にいるから良く聞こえない。
 そのうち中から怒鳴り声が聞こえだし、そのたびに男達は
ワッと言って逃げ出すが、又引き返してからかいに行く。
 とうとうたまりかねて女がおもてに飛び出してきた。箒を振り上げた
女性が髪をふりみだし、パジャマの裾をひるがえして男達を
追いかける姿は折からの月に照らされて、幻想的な絵のように
美しかった。
(昨日、この男は我々と階級が違うと書いたが、当時のイタリアには
僅かながら階級制度が残っていた。東京のイタリア大使館に居た
書記官が日本では共産主義は発達しない。階級の区別が
ないからだと僕に言ったことがある)。
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by pincopallino2 | 2009-12-26 07:07
ローマ赴任の思い出  3.
 エウルの同僚の家での間借り生活は彼の家族が来ることになったので
そんなに長く続かなかったが、面白かった。
 ある日曜日、靴下を洗って窓辺に吊るしておいたら、知り合いの若い男が
とんできて、そんなもの、おもてから見えるところに干したら罰金を取られるよと
教えてくれた。風致地j区に指定されているので、洗濯物は屋上の囲いを
した場所に干さなければいけないのだそうだ。そういえば道を挟んで洗濯物を
干しているので有名なナポリでも観光の呼び物としてやらせているので、
高級住宅街ではやはり屋上で人に見えないように干さなければならない。
 この男、近所の大金持ちの運転手をやっている、所謂大衆的な一般庶民で、
我々とは階級が違うのだが、僕は色々な階層のイタリア人を知りたくて
結構仲良くつき合っていた。時々カッチョ カヴァッロという瓢箪形ノチーズを
持って来てくれた。田舎に大農園を持っている主人のところからくすねてきた
ものらしかったが、美味しいので遠慮なく食べたものだ。エウルでの生活が
楽しかったのも彼のお陰かもしれない。
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by pincopallino2 | 2009-12-25 12:01
ローマ赴任の思い出  2.
 ヴィア ルドヴィージに駐車しておいた同僚の車が盗まれた。
早速警察に届けて待つこと数週間。その間毎日警察に行った。
警察には盗難車のリストがあってそれをチェックする為だが、
その数の多いこと。よくもこんなに盗んだり、盗まれたりする者が
多いんだろうと感心する位。
 もうでてこないだろうと諦めかけた頃のある朝。車が見つかったとの
噂が流れてきた。早速警察に行ったが、返事はまだ見つからないとの
ことだった。
 でもイタリアの場合、誰から流れたかわからないような噂でも
確かなことが多いから、再度調べてもらったら、盗難車リストを
見ていた警官が叫んだ。「アッ ナイ!」。
 車が見つかったのはテヴェレ川の上流の方に架かった橋の
ポンテ ミルヴィオ。早速行ってみたら車内は飲み物や食べ物の
包み紙等が乱雑に散らかっているが、車は動いてタイヤが新品に
変わっている。警察では若い男達が女の子と遊ぶ為に盗んだのだろうと
云っていたが、潔癖な同僚は車自体を売ってしまった。
注文した新車が来るまでの間に合わせに買った中古車だから
未練はなかったのだろう。
 なおポンテ ミルヴィオは古代ローマ時代の橋だが歴史上色々な
逸話があるので、いずれあらためて書くつもり。
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by pincopallino2 | 2009-12-24 11:54
ローマ赴任の思い出  1.
 昨日までローマへの赴任旅行の思い出を書いてきたが、今日からは赴任
してからの話し。
 ペンシォーネ セミラミスに一ヶ月程居た後、同僚の借りた家に間借りした。
平社員は赴任後6ヶ月間は家族を呼び寄せられないので、彼もまだ独身生活中
だった。
 場所はローマからEUR(エウル)。Esposizione Universale (di) Roma
「ローマ万博」の略だ。
 ムッソリ-ニ時代、万博を開催してイタリアを誇示し、その後の施設を利用して
官庁部門を移転、ローマは観光用に残すつもりだったが、戦争で万博は中止になって
しまい。計画を変更して居住地区としても活用。新しい地区だけに住宅も近代的で、
町並みも整然としており、高級住宅街として外国人も多く住んでいた。
 同僚の家は人工の大きな池に面していて、前が始めてイタリアを訪問した日本の
総理大臣手植えの桜並木だった。桜並木の通りの名前はパッセッジャータ デル
ジァッポーネ。日本の散歩道と言ったところだろうか。戦前はヴィア デル
ジァッポーネ(日本通り)というのがローマの高級住宅街パリオリにあったが、
日伊両国が敵国どうしになった時、名前が変わってヴィア パナマになったので
その代わりということなんだろう。僕が住んでいた頃はヒョロヒョロした1メートル位の
木で添え木がしてあったが、今は大木になって、春はお花見、夏は格好の木陰を
つくっている。毛虫がつくかどうかは聞き漏らした。
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by pincopallino2 | 2009-12-22 13:57
ローマへの赴任旅行の思い出  その4
 ローマに着任してから1ヶ月間はヴェネト通り近くのロンバルディア街、
リヴォリという映画館と向かい合った建物の4階にあったペンシォンで
過した。ペンシォンと言っても部屋数は5ツ位。年老いた夫婦と男の子が
一人の家族が経営している貸し部屋業みたいな感じだが、ローマに出張
してくる航空会社の人間がよく泊まるところだった。
 彼等三人の仲の良さは見ていても微笑ましく、品のよい奥さんが日のあたる
窓辺でつくろいものををしている姿などは日本で良く見る光景と変わらなかった。
 亭主はジェノヴァの人で、若い頃、当時はヨーロッパのホテルマンの
修行場所として名高かったカイロのホテル、セミラミスで働いていた。
そこに奥さんがベルギーからの観光団の一人としてやってきたのだそうだが、
短い滞在期間の間に二人は恋に落ち、奥さんが帰った後、彼はベルギーまで
追いかけて行った。でも家柄の良い奥さんの家では外国人のホテルマンとの
結婚を許さなかったので、二人は駆け落ちし、ローマにペンシォンを開いた。
ペンシォンの名前はセミラミス。彼等が始めて知り合ったホテルの名前だ。
そのうち奥さんが病気になって死に、親爺も落胆のあまり、後を追うようにして
死んで、一人残された息子はもう20歳になっていたにもかかわらず、家業を
続ける気力もうせて自殺してしまった。
 激しく燃え上がった若い頃の恋、平和で楽しかった人生、そして最後に突然
襲ってきた死の別離だったが、今は又三人揃って現世と同じように仲良く
暮らしていることだろう。
 今でもローマに行く度に、セミラミスの前を通って三人の冥福を祈っている。 
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by pincopallino2 | 2009-12-21 13:03
ローマへの赴任旅行の思い出   その3
 テヘランからは一気にローマへ。開港18日目のフユミチーノ空港に
着いてタラップの上で胸いっぱいに吸い込んだローマの朝の空気は
本当に甘かった。その味はいまだに忘れられないが、それからがたいへん。
 まづ入国審査で捕まった。丁度日本人観光客はヴィザが要らなくなった
直後だったが、僕は赴任だからヴィザをとってきたので大手を振って
入国できるつもりだった。
 審査官がまづ、日本人なのに何故ヴィザをとってきたかと聞く。
ローマで働く為に来たんだというと、チョッとこっちへ来いと別室に入れられて、
色々と質問された。
 やっと話しがわかって入国させてくれた時には、同じ飛行機に乗ってきた人達は
もう荷物を引き取って誰もいなくなっていて、税関の検査台には僕の荷物だけが
並んでいる。会社の備品なども持ってきたからその数10個くらい。
今度は税関の検査官がどうしてこんなに沢山の荷物があるんだと訊く。
今度ローマに飛んでくる日本航空の社員なので、開設準備に使う物も
持ってきたんだと答えたら日本航空というのはどこの航空会社だと聞かれて
ブッタマゲた。空港に働いている人間達も当時は日本航空なんて知らなかった。
 その頃の僕は電話で話す限り外国人だとわからない位イタリア語がうまかった。
 ヤットのことでローマに入り、仮事務所のあるヴィア バルベリーニに着いたら
明るいローマとの予想に反して陰鬱な感じだった。
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by pincopallino2 | 2009-12-18 13:53