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僕とイタリア 12
 日本への駐在武官は大佐クラスだったが、それぞれ副官がつく。
下士官だが、日本の軍隊の下士官とは違っていずれも紳士的だった。
最初に居たのは北イタリア、コモの町近くの出身者で、二番目は
イタリア半島の南端プーリア州の州都バーリから更に南に下がった
ポリニァーノ ア マーレの出身だったから、北の方言と南の訛りを
覚えられたし、それぞれの地方の風俗、習慣も知ることが出来た。
北の出身者はハンサムで性格もおとなしかったが、南の下士官からは
下層階級の生活の話しや、日本では知られていなかった南イタリアの
ことを聞くことができた。彼の自宅にもよく連れて行かれて、ご馳走に
なったプーリア独特の料理の味は忘れられない。彼の生家の傍にある
海に向いた洞窟の中のレストランは、食事している床の下を波が
打ち寄せていって、聞きしにまさる風情だった。
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by pincopallino2 | 2011-01-31 10:43 | Comments(0)
僕とイタリア  11
 イタリア大使館での勤務先は空軍武官室。
本来日本には海軍武官が来ていたのだが、
人手が足りなくて空軍が一時かたがわりしていた。
 このことが将来随分役にたったのだが、
始めのうちはチンプンカンプン。相手の 
いっていることが良く分からないし、こっちの
言うことも理解してもらえない。
 なるほど実際のイタリア語は学校で習ったのと
随分違うなと自信を喪失しかけた時、武官が
アメリカ大使館の武官と英語で話しているのが
聞こえた。その英語のすさまじいこと。
文法なんか無視。発音も良い加減だ。でも意味は
ちゃんと通じている。そんな英語を聞いているうち、
イタリア武官にとって英語は外国語、意味が通じれば
下手だってかまわないじゃないかときずいたら,
とたんにイタりア語を話し、相手の言う意味も完全に
分かるようになった。
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by pincopallino2 | 2011-01-30 09:38 | Comments(2)
僕とイタリア 10
英語部の教授が紹介してくれた商事会社はベルギーから夜露にあてた麻と
韓国から古着の麻の衣服を輸入していた。いずれも煙草の巻紙の原料に
するのだそうで、韓国の古着はボロボロなほど良いのだそうだ。多分繊維が
こなれているからだろうが、貿易実務なんて単位は外語でもとったこともないし、
それに会社では英語ばかりだからいい加減くさって辞めようと思っていたら、
今度はイタリア語の恩師から、東京のイタリア大使館に行かないかと声がかかった。
第二次世界大戦の末期、イタリアが日本に宣戦布告をしたので、途切れていた
外交関係が復活し、再開した駐日イタリア大使館で人を探している。外語の教室で
習った位のイタリア語ではろくに通用しないから大使館で生きたイタリア語を
勉強しろとのことだったので、渡りに船と商社を止め、大使館に移った。
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by pincopallino2 | 2011-01-29 10:58 | Comments(0)
僕とイタリア  9
外語はその後下井草という所に新しい校舎を建てて引っ越したが、
なにしろ高田馬場から私鉄で30分ばかり走った、当時としては田舎。
新校舎といっても終戦直後のことだからバラック建てで、硝子戸の
代わりに障子がはまっており、勉強中廊下から「お銚子一本」なんて
冷やかす声が聞こえてきたりした。
 教師の不足に悩んだり、兵役で単位が足りなかった上級生が落第
してきたりしてテンヤワンヤの学生生活だったが何とか卒業して、
その頃イタリア文学科があった京都大学に行こうとしたら、神田で生まれて
神田で育ち、箱根から先に行ったこともない母親の反対にあって、
代わりに当時優秀な米人教授が来ていた立教大学の英文科に入った。
といっても英語なんか勉強する気は全くない。適当に単位を取って
卒業したものの、今度は就職口がない。教職課程もとらなかったから
学校の先生にもなれなかった。
 焼け野原の東京を眺めては「折角外語でイタリア語を勉強したのに
こんな有様では一生のうちにイタリアはおろか海外にでることも
出来そうにない」と嘆いていたら、外語の英語部の先生が商事会社の口を
紹介してくれた。
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by pincopallino2 | 2011-01-28 15:29 | Comments(4)
僕とイタリア 8
 外語に入学した時、僕たちのクラスはイタリア語を第2志望に選んだ者を
含めて6,7名だった。そのうちイタリア語を第1志望に選んだのは3人だけ。
他の二人は美術史を勉強する為で、純粋にイタリアの勉強をしたかったのは
僕だけだった。
そのうちに徴兵されていた上級生達も戻ってきた。
不思議なことにロシア語や支那語部の生徒達は兵隊に行かないのが多かった。
軍事目的のせいだったかもしれない。後でイタリア語科の教師になった
奥野吟右衛門氏は新兵で徴兵されたら、イタリア語が出来るということで
兵役を免除され、駐在武官付きとしてイタリアに派遣されたのだそうだ。
 終戦翌年の4月。復員してきた学生も殆ど出揃ってクラスも増えたが
今度は先生が足りない。やはり復員してきて教職についた人は夏休みに
名古屋の実家に帰ってチブスで死んでしまった。日本人教師も足りないが
外人教師も居ない。カトリックの坊さんに来てもらったが、所属していた
教団が文化放送を建てるということで忙しく、休講ばかりだった。
致し方ないので彼を馘首にし、代わりにジュリアーナ ストラミジョーリという
女性に来てもらうことにした。日伊交換学生として来日し、京都で仏教美術の
勉強をしていたが戦後も日本に居残り、イタリア映画の輸入会社を設立したり
してイタリア文化の普及につとめ、日本政府から勲章をもらった人だ。
イタリア文化会館にイタリア語を教えてくれと行った時応対してくれたので、
僕が始めて会ったイタリア人でもあった。
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by pincopallino2 | 2011-01-27 10:45 | Comments(0)
僕とイタリア 7.
僕が入学するまで東京外語は4年制だった。
しかもイタリア語、ポルトガル語、蒙古語なんて
いう定員20名の小さな語部は隔年募集だから
1年と3年か2年と4年のクラスしかない。
落第すると1年待たなければならなかった。
専修語の他に法科、文学科、拓殖科に分かれていた。
満州とか南米への移民の為だったらしい。
もっとも戦争末期の昭和20年頃からは3年制になり、
名前も東京外事専門学校と変わった。
 外語には校歌の他にキンキラ節というのがあって、
。語部に関係なく生徒が集まると歌いだす。元は
熊本あたりのキンキラ節ではないかと思うが、
誰かが即興で歌いだすと皆がそれに和し、最後は
ソレモソウカイナ キンキラキンで終わる。
 キンキラ節の他に各語部の歌もあった。今は殆ど
残っていないようだが、蒙古語部の蒙古放浪歌と
いうのは素晴らしかった。もう一回聞いてみたい。
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by pincopallino2 | 2011-01-26 11:50 | Comments(0)
僕とイタリア  6
  亀戸の軍需工場で働いているうち、アメリカ軍が関西の方で新型爆弾を
落としたとの噂が流れ、防空壕を掘れといわれた。でも工場のある江東地区は
海抜0メートル地帯。すぐに水が出る。少し小高い所を掘るといやな臭いが
して、その年の三月の大空襲で死んだ人の遺体が出てくるといった調子で
結局防空壕は掘れなかった。
  やがて終戦。学校に戻ったが、間借りの校舎なので不便なことこの上ない。
外国語の勉強は教師と教科書さえあれば出来るということで、天気が良い日には
戸外での授業だった。
  教師もまだ全部揃っていない。外人教師はロシア語のミチュウリン、ドイツ語の
ローエンなどが早く戻ってきていたが、イタリア語は誰かを探さなければならなかった。
外人教師ばかりでなく、日本人教師も日伊文化会館で習った柏熊先生しかいない。
幸いなことに、イタリア語の上級生は殆ど全員兵隊にとられてまだ復員して
いなかったら、イタリア語の勉強は1年生のクラスだけだった。
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by pincopallino2 | 2011-01-25 10:33 | Comments(0)
僕とイタリア 5
  東京外語は当時東京、神田の竹橋(今の毎日新聞本社のある所)にあった。
鶏小屋といわれたボロボロの校舎で、塀の穴から覗くと、立って先生の質問に
答えている学生が見えたりしていたが、僕が入学試験を受けたのはその年から
滝野川に出来た新校舎。筆記試験と面接を終えて出てきたら中学校の帽子が
ない。5年間被り続けたのでいい加減くたびれ、油を塗ったように光っていたので、
不良がかった受験生の誰かが持っていったのだろうが、気分が悪かった。
  ところで何時まで待っても試験結果の通知が来ない。 業をにやした父親が
学校に行ってみたら、折角の新校舎が空襲で焼け野原になっていた。
  合格通知が来たのはそれから10日位あと。新学期は上野の美術学校を
間借りして開始する。但しすぐに勤労奉仕に行くようになるだろうから、そのまま
中学時代の勤労奉仕先に行っていても良いと書いてあった。
  中学校で通っていた勤労奉仕先も焼けてしまっていたので、外語から
亀戸にある製鉄工場に行くことになったが、重労働なのでお昼のお弁当は
大豆入りの白米だった。いまだにその美味しさは忘れられない。
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by pincopallino2 | 2011-01-24 10:56 | Comments(2)
僕とイタリア 4
イタリア語の講習は毎日曜の午前。
受講生は始め10人ほど居たが、だんだん
少なくなってしまいには2,3人になって
しまった。世の中には語学好きの人が
いるらしく、彼らは外国語に堪能で
流暢に話すことだけを夢見て、勉強の
辛さを忘れているから、直ぐに飽きて
辞めてしまい、他の言葉に飛びついていく。
 数年後中世ラテン語を勉強しに行った時も
最初の数回出ただけでイタリア語の講習会を
やめてしまった人にあったりした。
 講習会の講師は柏熊達生といって東京外語の
教授だった。教え方がうまいのですぐに
イタリアとイタリア語の虜になってしまった
僕はそれまで志していた国文学の勉強を
やめて東京外語のイタリア語部を受けることにした。
両親は大反対。なにしろ戦争に負けて国の存亡も
あやしいイタリアの勉強をしたいというのだから
無理もない。ただ一人、親戚の伯父さんが
「泰西文明発祥の地」のことだからと賛成して
くれたので東京外語を受験することができた。
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by pincopallino2 | 2011-01-23 09:38 | Comments(0)
僕とイタリア  3.
 第二次世界大戦終戦の前年、旧制中学の5年生だった。
季節は初秋だったと思う。氷の配給を受けるため行列に
並んでいた。丁度前年に降伏したバドリオ政権が日本に
対して宣戦布告をした頃なので行列はイタリアへの悪口、
怨嗟の声に満ち満ちていたが、聞いているうち、負けた以上
イタリアは滅びてしまうかもしれない、でも歴史には残るだろう。
そんな国のことを勉強するのも面白いなと思ったのが
イタリアに関心を抱いた始め。翌日、早速勤労奉仕先の
軍需工場をさぼって東京、九段にあるイタリア文化会館に
行って出てきたイタリア女性にイタリア語を教えてくれと
頼んだら丁度次の日曜日から初級が始まるからということで
早速申し込んだ。
 
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by pincopallino2 | 2011-01-22 17:57 | Comments(0)