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僕とイタリア 57    レストラン 19
 ローマでまだ一人住まいをしていた頃川向こう(トラステヴェレ)の
レストランによく行った。トラステヴェレは魚料理がうまいということで
良いレストランも沢山あるが、殆ど毎晩のように通ったのは目立たない
場所にある、何の変哲もない普通の店だった。夏は裏の狭い庭で
夕食を食べていると、傍の葡萄の木に捕まったヤモリだかイモリだかが
小さな声で鳴いていて、それなりに情緒があったが、冬も好きだった。
 雨の降る寒い夜などに行くと、客なんて誰もいない時もある。
親爺も暇だから客席に出てきて我々と四方山話しに興じていたが、
そのうちに興が乗ると手品をやってくれた。一番面白かったのは
トランプを持出してきて客に一枚を選ばせ、全部のカードを天井に
放り上げると、選んだ一枚だけが天井に貼り付き、あとのは客席に
散り落ちてくる。だから天井はトランプだらけだが、イタリア カルタ
だからお金だの剣だのと結構華やかな装飾になっていた。
 この店残念ながら今はない。
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by pincopallino2 | 2011-03-31 10:51 | Comments(0)
僕とイタリア 56   レストラン18
 当時支那料理の店はローマにも3軒か4軒あって、
ご飯類が食べたくなるとよく行ったものだが、
そのうちに日本料理家らしきものができた。
神戸の方でパチンコで儲けた人だかが始めた店で
ローマの高級住宅街パリオリの一郭にある、
日本式に言えばマンションの4階だかの部屋。
床にござをひいて日本座敷らしく見せていたが、
まだ数少ないながらも日本人の旅行者が屯して
日本酒で酔っ払い大声でわめくやら歌うやらしたので
周りから苦情が出てすぐに引っ越した。その後ローマの
町中で転々とし、最後はスペイン広場の傍で営業して
いたが、今はない。

 ところで、原発の事故はまだ終息の兆しがないようだ。
どんな障害にも対応できるように設備されていると
思っていたのに、このようなものを人類が利用するのは
無理なのではないだろうか。
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by pincopallino2 | 2011-03-30 10:26 | Comments(0)
僕とイタリア 55 レストラン 17
その頃日本でおでんの缶詰めなど、惣菜の缶詰めが売り出されたので
わざわざ取り寄せたが、日本食が恋しくてノイローゼになりそうなお客様は
自宅に連れてきてそんな缶詰めをご馳走したりした。
 お米は一時日本に輸出していた位豊富だし、イタリア人は日本人程
米食をしないから幾らでも手に入った。今は日本人向きにイタヒカリなんて
いうのも作っているが、当時は一番安い、くず米のようなのが日本米に
近かった。但し餅米はなかった。

 ところで震災、津浪、原発で大騒ぎしているのに、先頭に立って指揮しなければ
ならない筈の首相は何処に行ってしまったのだろう。やはり菅なんて首相の
器ではないんだろう。政党も変えなくてはならない。
 東電の社長も雲隠れ、心労のあまり倒れたとも聞いたので、入院したのかと
思ったら、原発とはあまり関係のないセクションの仕事をしていたのだとのこと。
こんな大事の際に役に立たない無能者なら早くやめてしまえ。


 
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by pincopallino2 | 2011-03-29 10:34 | Comments(0)
僕とイタリア 54   レストラン 16
留学生の中には近くのフユミチーノの海で釣った魚を開きにして
ヴェランダに干しておいたら、近所から臭いといわれて総スカンを
くったのもいたが、その頃ローマでもカツ丼が食べられるようになった。
 支那人の若夫婦が新しく開いた店だったが、奥さんが東京の後楽園の
近くの支那料理屋の娘で、日本人のことを良く知っていたから、
我々の困っているのを見てカツ丼を出してくれた。味噌汁もついていた。
値段はあまり安くなかったが、郷愁にかられてよく食べに行ったし、
お客さんも豪華なイタリア料理より素朴なカツ丼の方を喜んだりした。
奥さんが日本語を話したのも人気があった理由だろう。 
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by pincopallino2 | 2011-03-28 10:28 | Comments(2)
僕とイタリア 53     レストラン 15
 今から50年近く前のローマ。数少ない在留邦人の一人が
近くのフユミチーノの海岸で釣ってきた魚を干物にしようと
干していたら臭いと言って近所から総スカンをくったりして
いた時代だが、この頃ローマに、朝飯の時味噌汁をサービス
するペンションが現れた。経営者は勿論イタリア人だったが
東京に行った際ミソ スープなるものを知り、大量に買い込んで
来た。勿論お湯を注ぐだけのインスタントもので、イタリア式の
朝食に一杯つけるだけだったがこれが大当たりで、
朝味噌汁が飲めるよというだけで、
日本人客が集まった。

 話しは変わるが、東北の被災地で色々な流言が飛び始めた由。
関東の大地震の時にも朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいるといった
流言で、多くの韓国人、北鮮人が迫害を受けたそうだ。
 被災者が異常な心理状態になるのはわかるが、徒に流言飛語に
惑わされないで欲しい。
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by pincopallino2 | 2011-03-27 09:00 | Comments(0)
僕とイタリア 52 レストラン 14
 パン(食パンが良いかも)を切ってトーストにする。
焼き上がったらバターを塗って醤油を垂らし、海苔をまいて
食べると磯部巻きの味がした。同僚から教わったものだが、
当時、日本を出てくる旅行者は軽くて場所もとらないから
お土産用に海苔を沢山持っていて、置いていくから皆
もてあましていた。 
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by pincopallino2 | 2011-03-26 00:20 | Comments(0)
僕とイタリア 51   レストラン 13
  コカコーラを鍋にあけて沸騰させ、炭酸を抜く。
塩等で味を直し、イタリアのカッペッリーニを茹でて
食べればお素麺、スパゲッティなら饂飩になる。
  フランスに居た留学生が考え出した日本食
まがいのものと聞いたが、東北の被災者の人達も
真似してみたらどうだろう。でもそのパスタが
ないのかもしれない。
  大地震、津波、原子の汚染に加えて、
被災地は寒さと悪天候が続いている。
何故彼等だけがこんな苦しみを味あわなければ
ならないのだろう。
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by pincopallino2 | 2011-03-25 10:33 | Comments(0)
穆とイタリア 50  レストラン 12
  日本食がないとなると無性に食べたくなって色々と工夫する。
幸いイタリアでは日本のとは一寸違うがお米があった。
但しおかずがない。まだインスタント食品もなかった頃だから
ソーセイジなんかを買ってくる他なかったが、漬物は
ビールに平たく切ったパンを浸し、茄子や胡瓜をつけておくと
結構美味しい一夜漬けになったりした。
  この漬物、戦前からヨーロッパに居る日本人の間で
ひろまっていたらしい。
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by pincopallino2 | 2011-03-24 10:30 | Comments(2)
僕とイタリア 49 レストラン 11
  始めて行った頃のローマには日本料理店なんか一軒もなかった。
だから日本料理も食べられない。それらしいものを必死に探したら
都心のオーストリア料理屋にカレーライスがあることがわかった。
  さっそく皆に知らせたが、なにしろ日本人なんて殆ど見かけない頃
だから、注文する者もいないらしく、毎日あるわけではなかったし、
日によって飛び上がる程からかったり、カレー粉が入っているのかと
思うほどの味だったりした。
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by pincopallino2 | 2011-03-23 10:31 | Comments(0)
僕とイタリア 48   レストラン 10
  カルボナーラは今から150年程前イタリアが国家統一をした頃
独立運動をしていた秘密結社の連中が炭焼き(カルボナーロ)を
装って山にこもり、相談をしている時に作って食べていたので
カルボナーラと言う名前がついた料理だが、ローマのは
ペコリーノ ロマーノというチーズを入れるので他の地方のもの
より美味しいのだそうだ。
  そのカルボナーラをよく食べに行った店がローマ、バルベリーニ
広場近くのシスティーナ通りに今でも残っていて盛業中だ。
  この前、店の前を通ったら親爺に呼び止められた。昔通った頃の
親爺はもう死んでいて、当時夜になると店に出てきて会計なんかを
手伝っていた息子なんだそうだが、むこうでは覚えているものの、
余り大きくなっているので分からなかった。
  カルボナーラの味は昔の方が美味しかったような気がしたが、
親爺が昼間っから歌ってくれたストルネッリ ロマーニが懐かしかった。  
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by pincopallino2 | 2011-03-22 11:00 | Comments(0)