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日本人とイタリア人 41
ベルトラメッリ能子、鉄(てつ よしこ)さんも有名だった。
歌がうまく、上野の音楽学校を卒業後イタリアに留学したが、
ムッソリーニの親友で作家のベルトラメッリ氏と知り合って結婚。
そのうち故郷の日本に里帰りしたくなったが、今のように飛行機が
あるわけでなく、船で約1ヶ月、シベリア鉄道経由でも2週間
掛かった時代だからなかなか許してくれない。思い余って
ムッソリーニに加勢を頼んだら、彼は「日本に帰ってもよいが
そうしたら君はもうイタリアには戻って来ないだろう」と云ったそうだ。
ムッソリーニの予言通り、日本に帰ってきた能子さんは第二次世界
大戦が始まって再びイタリアに行くことが出来なくなり、晩年は
鎌倉で過ごしていたようだ。
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by pincopallino2 | 2011-07-31 08:55
日本人とイタリア人  40
第二次世界大戦中、金山駐ヴァティカン大使はローマに残っていたが、
邦人女性も一人居たようだ。上海で知り合ったご主人がイタリア人だったので
国籍もイタリアに変えていたのだろう。
  戦後駐伊日本外交代表部が出来た頃、ごく稀ながら公用で来始めた
日本人旅客の世話を親身になってし、日本食を恋しがる人には自宅に連れて
いって手作りの日本料理をご馳走したりしたので、皆の人気者だった。
彼女自身も日本人が恋しかったのかもしれない。
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by pincopallino2 | 2011-07-30 09:48
日本人とイタリア人 39
明治の初めiにもイタリア人と結婚した日本女性が居た。但し、今のように
婚姻法なんて整備されていない時代だから正式な結婚とは言えないかもしれない。
 明治の初め頃、フランスからチャリネというサーカス団がやってきた。当時は
電器屋街でもなんでもない東京、秋葉原の原っぱで興行し大評判だったそうだが、
その後各地を巡業し、新潟にやってきた時に賄のイタリア人が病気になってしまった。
予定がつまっているので、サーカス団は病人を置いたまま次の巡業地に出発。
言葉も分からず風俗習慣も違う地に一人残されたイタリア人は随分心細い思いを
したろうが、幸い親切なおじいさんが居て彼を自宅に引き取った。病人の世話を
したのはお爺さんの娘だか孫。そのうちに愛が実って二人は同棲。病の癒えた
イタリア人は得意の腕をいかして料理屋を始めた。まだ西洋料理屋なんてろくに
ない時代だから新潟では始めての店だったかもしれない。
店の名前はイタリア軒。新潟はロシア人なんかも来航して外国人には慣れて
いたせいか結構繁盛したらしいが、このイタリア人、望郷の念やみがたく
妻子を新潟に放り出したまま故郷のシチリアに帰ってしまった。
店は家族が後を引き継いで続き、今ではホテル兼レストランとなっていて、
羽織袴姿のイタリア人の大きな写真が飾ってある。
僕の母親の新潟生まれの友達も海水浴帰りに立ち寄ってアイスクリームなどを
買ったようだが、美味しかったと聞いたことがある。
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by pincopallino2 | 2011-07-29 10:29
日本人と イタリア人 38
  昨日ごく簡単に紹介したラグーザお玉さんは結局日本に帰り、
軽井沢で死ぬまで画家として数々の作品を残している。
  彼女の孫だか曾孫にあたる女性がお玉さん夫妻のイタリアでの
業績をたずねて長くイタリアに滞在していた。ちなみにお玉さんの
ご主人のラグーサさんは彫刻家で、彼の作品はイタリアの随所に
残っている。
  そのお玉さんが怒り心頭に達したローマの日本大使館〔当時は
まだ公使館だったかもしれない) の領事の無礼な態度は僕自身も
実際に目撃した。スペインのマドリドで朝早く散歩に出かけた日本人
グループの何人かが暴力掏りにやられた。マドリドには北アフリカ系の
暴力スリ団が居て、白昼の盛り場の人ごみの中でも女性を引きずり倒し、
馬乗りになってハンドバッグをむしりとっていくのがいるのだが、
警察に捕まったと聞いていたのにやられた。なんでも釈放されたのだ
そうだが、指を折られたリ、頭をなぐられて血を流したりと文明国家では
考えられないひどさだった。仲にはパスポートを取られた人もいたので
早速日本大使館へ。でもその時の領事もひどかった。緊急病院で
手当てをしてもらって、頭には大きなコブが出来、手には包帯を
巻いているのに別室に呼び込んで「パスポートは身体に巻いておくものだ」
などと居丈高にどなる。こっちは新しいパスポートを早く出してもらいたい
からしたでに出ていたが、コイツは領事という者は海外に居る日本人を
保護するのが役目だというのが分からないらしい。怒鳴りつけるだけで、
怪我や盗難に対する優しい言葉は一つもなかった。日本の外務省も
外交官や領事のしつけをキチンとやってほしい。
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by pincopallino2 | 2011-07-28 12:08
日本人とイタリア人 37
日伊両国を沸かせた恋愛物語りはヨランダ渡部さんの前にもあった。
これも有名なラグーザお玉さんの話だ。頃は明治に遡る。芝増上寺の庭の
手入れを一手に引き受けていた植木屋さんに一人の小さな女の子がいた。
縁側に坐っていつも描いている絵がすごくうまい。その時代は芝にあった
今の美術学校の外人教師だったイタリア人ラグーザ氏がその絵を見て
本格的に教え込む。しまいには内弟子にして教えたそうだが、その厳しいこと。
今の学生達だったら逃げ出してしまう程だったが、この女の子は耐えた。
そのうちに先生と弟子とはいえそこは男と女の仲。ラグーザさんの任期が切れて
イタリアに帰る時には師弟愛が恋愛になっていた。でも明治の時代。外人と
結婚するなんてとんでない。しかもイタリアがどこにあるのか知らないのが
普通の頃なのにラグーザさんが帰るのはシチリア。当時は船で一ヶ月かかった。
結局両親も折れて弟だか兄さん夫婦も同行することを条件に許可した。
シチリアでも日本人の花嫁なんて始めてだったろうがとにかく住み着いて
長く暮らしたようだ。そのうち夫のラグーザさんが死に、漆細工を教えていた
兄弟夫婦も原料が取れなくなって帰国。一人残ったお玉さんは夫が在日中に
買い集めた日本の道具類を整理してパレルモ市に寄付したりしたが、一人に
なって帰心止み難く、一回放棄した日本国籍を再取得できるかどうかローマの
日本大使館に聞きに行っているが、その時応対に出た領事の感じの悪いこと。
お玉さんは死ぬまで怒っていたようだ。日本の領事の悪さは僕もスペインで
如実に味わっていて、そのことは近いうちに書くつもりだ。
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by PINCOPALLINO2 | 2011-07-27 18:16
日本人とイタリア人 36
昨日書いたガブリエーレ石原が勤めていたエール フランスのローマ支店へ
東京から素晴らしい美人が派遣されて来た。
 昔、ローマにヨランダさんという女性が住んでいた。日伊両方の血を2分の1づつ
引いた人で、僕の家内も子供の頃ピアノを教えてもらっていたらしいが、そのうちに
彼女、外交官の渡部さんという人と相思相愛の中になった。でも時の大使は余程
野暮な人であったらしく、二人の結婚を許さない。しまいには「仕事をとるか、恋を
選ぶか」と言われて渡部さん、敢然として外務省を辞め、ヨランダさんと一緒に
なってしまった。
 この話し、日伊両j国でもたいへん有名だったようで、僕の母親も知っていたが、
ローマに日本航空の支店が出来た頃、店に入ってきて、「ヨランダはどうしている?」と
聞く人が何人も居たので驚いた。近況を知らないから生返事をしていると
「宜しく言っといてくれ」といって帰ってしまうが、イタリアでもヨランダさんは有名
なんだなと感心したことがある。
  エール フランスに赴任した女性はそのヨランダさんのお嬢さんかお孫さんで、
楚々としていながら近代的な美女だった。残念ながら結婚の為帰国してイタリアでの
滞在は短かったが、1年ほど前に書いたブログを見て電話を掛けてきてくれた
ご姉妹の方から息災に過していられると伺って、なんだかホっとした気分になった。
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by pincopallino2 | 2011-07-26 12:47
日本人とイタリア人 35
ローマに住んでいた頃、仲の良い友人にガブリエレ 石原という男が居た。
彼とのことは何時までも忘れられず、このブログにも何回か書いたが、
お父さんが日本の外交官でお母さんがイタリア人、だから日伊混血だった。
第二次世帯大戦の末期、日本人は皆引揚げたが、父親は奥さんがイタリア人、
つまり日本にとってはその頃交戦国であった敵国人なのでイタリアに残った。
幸いイタリアでは敵国人として拘束されることはなかったようだが、仕事がない。
苦労して家族を養った末、精魂つきてピストル自殺をしてしまった。
 たまたま日本でも戦争ガ終わって大使館に昇格する前の外交代表部が
ローマに置かれ、ガブリエーレが雇われたが、なにしろ父親に教わった
日本語なので偉いお客さんに向かって「お女郎さんは如何ですか」といった
調子だった。
  それでも外交代表部で実際の日本語を覚え、フランス航空のローマ支店に
勤めていたが、父の国日本への憧れは尋常でなく、休暇の始まる日には日本への
飛行機に乗り、休暇の終わる日の夜、日本から帰ってきていた。自宅では床に
ござを敷いて一閑張りの机を置き、毛筆でお習字の勉強をしていた。
  そんな彼、ある時日本航空の事務所に来て、いつものようにイタリア人の悪口を言い、
日本人を誉めそやし始めた。たまりかねたイタリア人が「そんなことを言ってもお前も
半分イタリア人じゃないかと言ったら、居丈高になって「俺は100パーセント日本人だ」と
怒鳴った。血はイタリアと半々でも昔堅気の父親にしつけられた本当の日本人だったかも
しれない。残念ながら彼は盲腸をこじらせて死んでしまった。一人住まいだったから
誰も気がつかなかったのだろう。
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by pincopallino2 | 2011-07-25 12:29
日本人とイタリア人 34
ローマに伯爵夫人と称する日本女性が居た。
ジプシー(ロマ)に近い服装をして、後ろに
イタリア人の浮浪者達を引き連れて歩いている。
何でも戦前からイタリアに住んでいるとのことで、
浮浪者達もそうだというが、日本中とは付き合いが
ないらしく、実際に彼女のことを知っているイタリア人も
いなかった。
 話しているうちに辻褄が合わなくなったりするので
頭が少し弱いかもしれない。
いずれにしろその後彼女とは会わず、消息も聞かなかった。
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by pincopallino2 | 2011-07-24 10:04
日本人とイタリア人  33
イタリアでは子供が生まれると家の門口、
マンシォンならばビルの入り口にリボンを出す。
男ならばブルー、女の子はピンクだ。
 マンシォンの場合は何処の家で生まれたかは
分からないが、それでもこの住人達の家で子供が
生まれたのだなとわかって微笑ましい気分になる。
たまにリボンが二つぶら下がっていることもあるが、
別々の家で生まれたのか、双子なのかまでは
分からない。
 日本にもこういう風習はあるのだろうか。
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by pincopallino2 | 2011-07-23 09:58
日本人とイタリア人 32
今月はお盆月。 旧暦で8月にする地方も沢山ある。
御先祖の霊を家に迎えるというのは素晴らしい風習だと思う。
 カトリックのイタリアでは10月の2日を死者の日としていて、この日は
家族打ち揃って墓参りに行き、墓地にスペースがある家では墓前で先祖達と
一緒に食事をしたりする。沖縄の墓参と似た風習だ。
  葬儀の時は遺体を最近は自動車も多くなったが馬車に乗せて会葬者はその後に
徒歩で続く。ルネッサンス時代の天才画家ラッファエッロの葬儀の時は馬車が
埋葬地のパンテオンに着いても会葬者の列はまだ葬儀を行ったヴァティカンの
サン ピエトロ寺院を出ていなかったそうだ。どの道を通ったか知らないが、
少なくとも3キロ位はあるだろう。
 そんな馬車なり自動車が通ると巡査が飛び出してきて交通整理をし、遺体に向かって
挙手の礼をする。
  葬儀の時一般の会葬者は平服でも構わないが、遺族は暫くの間喪服で過す。
  日本では葬儀や法事の時は喪服を着るものの、それ以外の時には平服で過すが、
イタリアの場合一般の参列者は平服でも構わないが、遺族は暫くの間喪服で過す。
仕事を持った男の人たちは喪服で通すわけに行かないから平服に黒の腕章を巻いたり、
黒のネクタイを締めたり、黒くて小さなバッジを胸につけたりしている。
  女性は黒のワンピースが多いが、黒だと汚れが目立たず、それに毎日
着替えたりする必要がないから、二度目の青春も考えられないような老婆は喪が
明けても黒服で通している。南イタリアの田舎に行くとそんな老婆達が道端にたむろして
四方山話しをしている光景を良く見かけるが、まるで烏が電線に並んでとまっているようだ。
  でも若くして未亡人になった人もいて白粉も塗っていない顔に黒の喪服がよく似合う
から女やもめに花が咲いてなかなか身が持たない。僕もその恩恵に何回か浴した。
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by pincopallino2 | 2011-07-22 14:30