日本人逃避行  2.
 1943年の冬を過ごした疎開先ヴォフィングのシーメンス保養所は人里離れた
山麓に孤立していて所長の婦人と男子職員一名、それにドイツ占領下の
ウクライナから連れてこられた賄婦がいるだけ。食糧は現地人と同じに配給されたが、
乏しかったので酷寒の中10キロばかり離れた町までトラックで買出しに行かねば
ならなかった。
 一方ドイツ軍が進駐してきていた北イタリアは当時戦場にはなっておらず、
食糧事情もドイツやオーストリアより良かったので、皆、まだ日本人が多く住んでいる
イタリアのメラーノに移りたがった。ドイツ語がわからなかったのも苦痛であったらしい。
 そんな一同の要望をたづさえて1944年の6月、三菱商事の牧瀬氏、大倉商事の
朝香氏の2名がヴェネツィアの日本大使館との打ち合わせ、メラーノの現地下見に
出かけたが、途中で消息がわからなくなってしまった。丁度光延海軍武官が
パルティザンに射殺されたという情報も伝わってきていた頃なので、八方手を尽くし、
ドイツ軍にも捜索を依頼して一同心配していたところ、6ヶ月たった12月22日になって
ドイツ軍から日本人と思われる遺体がドロミティの雪の下から発見されたとの通報が
寄せられた。早速メラーノから岩崎氏(三井物産の社員と思われる。一行がヴォフィングに
向けて出発した時はまだローマに残っていて、その後メラーノに移動した模様)と
大倉商事の犬丸氏が大使館員2名とともに現場に急行して遺体の確認をおこない、
ドイツ兵によって火葬にしてもらった。遺体発見の糸口はドイツ軍が捕らえた
パルティザンの自供で、それによると二人はドロミティ山中の小さな村に数日間
監禁された後に射殺され、遺体はそのまま雪中に放置されたとのこと。
(原文では二人の発見地がドロミティ山中であったりアペニン山中となったりしているが、
ウィーン近くから来てヴェネツィア、メラーノに行くとすれば、ドロミティの方が正しいと
思われる。アペニンはイタリア半島を南北に縦断している山脈。ドロミティはアルプスの
一部の山塊でヴェネツィア、メラーノの間。この頃はパルティザンが出没するので、
幹線道路以外は危険といわれていた)。
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by pincopallino2 | 2009-01-29 12:38
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