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日本人逃避行  3.
 一行中の2名の不慮の死、5歳の男児の病死に加えて、米軍のローマ占領、
連合軍のノルマンディ上陸などドイツ軍にとって不利な戦況が伝えられてきたので、
メラーノへの移動の話しは立ち消えになってしまったが、
1944年の10月、住んでいるヴォフィングのシーメンス保養所がドイツ軍の
病院として接収されることになり、立ち退きを要求される。
在独日本大使館の斡旋で急遽ドレスデンの東南約30キロ、エルベ河畔の
ケーニッヒシュタインに移動することになった。数少なくなった男性が多くの
婦人、子供達を引率して言葉もわからない戦争中の外国での長い距離の移動には
大変な苦労があったと思われる。(どのような経路をとったか不明であるが敗色濃い
戦時下であったので回り道をし、700キロ近い道程であったのではなかろうか)。
 移動先のケーニッヒシュタインではメラーノに居た民間邦人の大部分(数名は引き続き
海軍武官室嘱託としてメラーノに残留)35名が合流して二つのホテルに分宿することに
なった。
 ケーニッヒシュタインはエルベj川の左岸にあり、背後は急峻な山なので日照時間が
少ない上、たまたま冬の為、イタリア育ちの子供達は零下10度以下にもなる寒さに
耐えられず、食糧難も益々厳しくなり、空襲も増えてきたのに防空壕もないので、
少しでも安全な場所に移りたいとの要望が強まった。
 この間、コルティーナ ダンペッツオにあった陸軍武官室は北イタリアも安全とはいえなく
なってきたので、ベルリン又は更に北に逃げようとしたが、当時日本と不可侵条約を結んで
いたロシア軍の進撃経路に近い所が良いだろうとのことで(陸軍は最後迄ロシアを信用して
いたらしい。随分甘い判断だ)ポーランド領のヴロツラフに避難をすることにし、先行の
2名の者がそれぞれ車2台に荷物を満載して出発したが、途中ドイツとチェコの国境地帯の
山道で一台が零下十何度の寒さに凍結した道でスリップして崖を約10メートル下迄
転落した。幸い車は低速なら走れたので進路を変更し、邦人避難先のケーニッヒシュタインに
辿りついたが、転落車を運転していた渡辺氏は鞭打ち症になってしばらく静養しなければ
ならないといったハプニングも起きた。
by pincopallino2 | 2009-01-30 13:59
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