移転した兵舎は刑務所内を見下ろすことができ、看守兵の銃を構えた監視からも解放された。
日光、風通しも普通の兵舎並で洗面、洗濯、日光浴、用便も自由になり、食事もドイツ兵捕虜と 同等のものと名って、健康上の不安も取り除かれ、スパイとして銃殺されることもないだろうとの 安心感も出て、ようやく生気を取り戻すことができた。しかしこの間にあっても別れ別れになった 家族の安否についてはついに何の連絡もなかった。 7月24日、入房後68日目にしてようやく陸軍刑務所を出た。入所の時乗せられた囚人輸送車 でなく、軍用の無蓋貨物自動車で、パリから西北かなりの僻地にあった古城風の邸宅(米軍に 接収されて宿舎に使われていたものと思われる〕に移された。刑務所を出る時、入所の際押収 された所持品も大半返され、連行の米将校も穏やかな扱いだった。到着後、引き続き日本人が 送られてくると知らされ、一体誰であろうかと色々想像していたところ、2,3日して数台の軍用 貨物自動車で、多数の日本人が到着し、その中にカームで別れ、入房中安否をきずかっていた 家族の婦人、子供たち23名全員が加わっていた。お互いが生存していたことを喜び合う中でも 特に夫とその妻及び子供たち家族が無事再会できた喜びは、夫々生涯忘れられぬ感激の一瞬 であった。もっとも婦女子の宿舎は別で、家族との会話はまだ許されなかった。古城に集結した 日本人はベルリンから南ドイツノバートガスタインに避難して米軍に捉えられた大島大使を始め 駐独大使館員達で商社員は殆ど居らず、イタリア駐在員も居なかった。後から連行されてきた 日本人の中には我々の獄中生活に深く同情してワイシャツや手提げ鞄などを分けてくれる人も 居た。ドイツに留学していたバイオリンの諏訪根自子さんも一緒だったので、宿舎の監督将校は 一夜彼女のコンサートを開いて一同を慰問してくれた。この寛容な態度は日米がまだ交戦中で あっただけに、入牢中の米兵の仕打ちに比べて天地の差を感じた。
by pincopallino2
| 2009-03-28 13:38
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